【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来2
『沈黙から行動へ 東京のヒバクシャ30年のあゆみ』から
「東友会25周年から30周年へ」(伊東壯執筆)
東友会25周年から30周年へ8
この1987年の11月大行動の中でもいくつかのエピソードが生まれた。
11日の「おりづる人間の輪」の全体責任者は山本英典代表理事であった。人間の輪が厚生省をとりまき終わった時、宣伝カーの上に仁王立ちになり、マイクを握って指揮をとっていた山本氏の声が変わった。両頬をぼうだと涙が流れている。原爆被害の過酷さと高齢にもめげず、「おりづるの輪」で厚生省を取り囲みつづける被爆者の彼は震えるような感動を覚えたのだ。その後の終結集会での報告でもそうだった。
これで、1973(昭和48)年の厚生省前座り込み時の終結集会での私(伊東)と静岡の杉山秀夫さんに続いて、第3番目の泣き男が生まれた。
安藤賢治氏の奮闘も大変なものだった。毎晩泊まり込んで翌日の動員の世話をする。疲れと平素の口の悪さが一緒になって、すさまじい形相で請願書受付で指揮をしている、日本被団協の田中煕巳事務局長をはじめ何人が怒鳴りつけられたことか。
しかし、国会へのデモの最中、安藤さんは野口壽一さんにささやいた。「車椅子に乗りなさいよ」。安藤さんのよさである。山本さんの発案で用意した車椅子はカラのままで押されている。野口さんいわく「あんた乗りなさいよ。私が押してあげる」。ちなみに野口さんは84歳、安藤さんは60歳。さすがの安藤さんものペシャンコだったとか。
この大行動の中で、東友会は独自の運動として「総理大臣への手紙」を書く運動に取り組んだ。病床に伏している被爆者もできる運動、田川さんらしい発想である。45通の手紙が書かれ、小渕恵三官房長官に手渡された。
なおこの年、東京都の委託事業費は700万円となり、11月行動でのカンパは約270万円に達した。また、中野区と日野市では「被爆者援護条例」が決議され、府中市では鍼灸の治療券を市に交付させ、1988年4月には、地区の会では初めて町田で「町友会とともに生きる会」が結成された。
また、日本被団協の代表理事には山本英典氏、理事に小西悟氏が就任し、東友会事務局次長に横川嘉範氏が加わり、亀井賢伍氏は辞任した。6月事務局に飯島敬子さんを迎えたが、家庭の事情で9月に退職した。
第3回国連軍縮特別総会、そして東友会30周年
1988(昭和63)年度、日本被団協の運動は、死没者調査を国内外に普及することと、第3回国連軍縮特別総会(SSDIII)への対応をもってその幕を開けた。
同年4月、ジュネーブのNGO国際フォーラムに代表をおくり、さらにアメリカのネバーアゲインキャンペーンなどの団体、国内でも市民団体、「日本連絡会」とも連絡をとりながら、日本被団協独自の代表団の派遣を計画していった。
この中で、日本被団協代表団が国連で発言の機会を与えられることとなり、代表として伊東壯が指名された。
東友会もこのSSDIIIへの日本被団協代表団に参加することとなり、横川嘉範、山下久代、伊東の3人が参加した。