【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来2
『沈黙から行動へ 東京のヒバクシャ30年のあゆみ』から
「地区の被爆者運動30年の苦労と前進」(田川時彦執筆)
地区の被爆者運動30年の苦労と前進6
この時期、全国的にはベトナム反戦の世論も高まるなかで、東京では美濃部革新都政が実現し、首都の被爆者運動は、日本の被爆者運動をも支える中心的な役割も果たせるようになっていきました。
特別措置法施行後の地区活動
1968(昭和43)年9月から施行された「被爆者特別措置法」は、10年以上にわたる全国被爆者の援護法要求の運動が実らせたものです。もちろん援護法要求からは不十分なものですが、被爆者に、新しく特別手当や健康管理手当などが給付されるようになりました。
この成果は、地区活動をいっそう意味のあるものにしました。被爆した苦しみに加えて高齢化する被爆者の生活条件がきびしくなる状態で、手当需給の相談世話活動は、地区活動のたいせつな内容となりました。日本被団協も、パンフ『これは私たちの権利です』を発行し、「網の目援護」の運動を提起しています。
- 足しげく健康管理手当の受給をすすめて家庭訪問を続けるUさんは何度も門前払いにあいました。それでも、根気強く接触を続けるうちに、徐々に気持ちがわかってもらえ、手当が受けられるようにしてあげると、こんどは逆に感謝されるようになりました。
- 何年間も、休日のたびに自転車で被爆者をたずねては一軒一軒回りました。何度も訪ねているうちに、ほとんどの人が手当を受けられるようにお世話をしました。今では、にわか雨の時など、洗濯物を取り入れてあげるぐらいに親しくなりました。東友会の名簿をたよりに一軒一軒被爆者を訪ね、一人、二人と会員を集めていきました。やっと番地をたずねあてても「何しに来たの」と言わんばかりの顔をされたり、ひどいときは、押し売りとまちがえられたりの苦労でした。
1970(昭和45)年以降も、毎年のように地区の会は結成されました。70年に調布・調友会(4月)、71(昭和46)年には清瀬被爆者の会(8月)、田無被爆者の会、荒川被爆者の会、72(昭和47)年に被爆者練馬の会(9月)、76(昭和51)年に日野被爆者の会、77(昭和52)年に台東・台友会(11月)が結成されました。
- 他地区の会の役員さんの手も借り、名簿を頼りに、会結成の準備を始めました。準備期間中にも「政党に関係があるのでは」「名簿はどこから手に入れたのか」「嫁入り前の娘がいるので連絡しないでほしい」など、きびしい電話がありました。「被爆していることを公にしたくない」「そっとしてほしい」などの手紙もありました。
- 再建総会だというのに被爆者がたった4人――「最初はそんなものですよ。この4人が、次のときは一人ずつさそって集まれば8人になるではないですか」
- 原爆のために片足が不自由です。近所の人に田舎から送られてきたジャガイモをおすそわけのつもりで配りましたら、「食べても大丈夫でしょうね」と気味悪がられました。わたしが、原爆の被害者だからです。あふれてくるくやし涙をどうすることもできませんでした。けれど、被爆者の会に参加してみて、みんなが苦しみながらも、くじけず生きていることがわかりました。いわれのない不当な差別も、みんなで訴え、なくしていきたいと思います。
このようにして被爆者の要求にこたえる地区活動は、東友会の運動も力強く支えていきました。東海寺への慰霊碑建立、広島・長崎に墓参団の派遣、東京の被爆者実態調査、援護法制定要求の座り込みや国会請願デモなど、各地区の会が力を出して成功させてきました。