【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来2
『沈黙から行動へ 東京のヒバクシャ30年のあゆみ』から
「地区の被爆者運動30年の苦労と前進」(田川時彦執筆)
地区の被爆者運動30年の苦労と前進4
1966(昭和41)年6月1日、「東京都原爆被害者をはげます集い」の当日は、米原子力潜水艦の横須賀入港に反対する都内民主諸団体が現地に大動員をかけた日であり、しかも、夕刻からは大豪雨になるといった条件にもかかわらず、都内の各地に配車された貸し切りバスで、被爆者と都民1万人が千駄ヶ谷の体育館にかけつけ、感動的な集会として成功させました。
都内の各地区では、半年も前から被爆者を戸別訪問し、集会への結集をよびかけてきました。そして、地区の会の組織化や再建も同時にすすめられ、新しく活動する多くの被爆者があらわれました。
- 原水協や教員組合の人に「被爆者のあなたが何もしないでいいのですか」と言われては、もうじっとしていられなくなりました。
- はげしい雨の中をずぶぬれになって、バスの運転手さんの分まで弁当を買いに行き届けてくれた被爆者、バスの中でシャツをぬいで、泣いてケロイドを見せた被爆者の姿を、今も忘れることができません。
- バスが1台配車されても、午前中までには、わたしの家内を含めて4人しか見込みがなかった。それが、発車時には続々とみんながかけつけてくれ、帰りなどは席も足りないほど満席になり、ほんとうにうれしかった。
1964(昭和39)年には、葛飾・葛友会(12月)が、1965(昭和40)年には立川被爆者の会、昭島被爆者の会(4月)、府中会(10月)が生まれ、1966(昭和41)年に入ると一気に、豊島・豊友会(7月)、江戸川親江会(7月再建)、三鷹被爆者の会(7月)、小金井・折鶴桜会(8月)、千代田被爆者の会(9月)、町田被爆者の会(10月)、八王子・八六九会と、結成・再建がすすみました。つづいて1967(昭和42)年に保谷被爆者の会(5月)、1968(昭和43)年に東久留米被爆者の会(6月)、東村山の会(6月)も生まれました。
要求で結束をすすめて
6・1以後の地区の会は、多くの活動家が結集して、次第に集団的・民主的な運営をすすめるようになりました。総会、役員会、世話人会、懇談会などが度々開かれ、みんなで話し合いみんなで決めて行動するようになってきました。従来は、会をつくり出発はしたものの、被爆者の結集や協力が弱く、会長だけ役員だけが苦労してきた会も少なくありませんでした。
活動する多くの被爆者があらわれたことによって、地区の会は従来にはなかった、被爆者の要求にこたえる多彩な活動を始めるようになりました。
会員を戸別訪問し、その実態を知り苦しみや要求を聞く活動。同時に被爆者運動を知らせ見舞品を配布していく活動。地区独自の被爆者の要求実態調査を実施し、その結果をもとに自治体への請願をくり返し、助成金や見舞金を実現させていく活動。会の活動を逐一ガリ版刷りで知らせていく会報発行の活動。会員や支援者との心のつながりを強めるための懇親会や旅行、被爆者のもっとも気にしている健康・医療の相談、講演会など、多くの会が計画し実行するようになりました。