【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来2
『沈黙から行動へ 東京のヒバクシャ30年のあゆみ』から
「東友会25周年から30周年へ」(伊東壯執筆)
東友会25周年から30周年へ1
はじめに
東友会の30年間の歩みのうち、25年間までは25年史(『首都の被爆者運動史 ―東友会25年のあゆみ―』)で述べられている。そこでここでは、1982(昭和57)年から88(昭和63)年までの、最近5年間についてのみ、かんたんにまとめることとした。それ以前については、『首都の被爆者運動史 ―東友会25年のあゆみ―』をぜひお読みいただきたい。
直近の5年間は
被爆者運動に関連したことがらからここ5年間をみると、国際的にいえばちょうど第2回国連軍縮特別総会(SSD II)から第3回国連軍縮特別総会(SSD III)にいたる期間であり、世界の平和運動は高揚し、1987(昭和62)年の暮れにはついに米ソ間で中距離核ミサイル(INF)全廃条約の締結をみた世界史的にも重要な時期であった。国内では1985(昭和60)年から1986(昭和61)年に、総評・原水禁の不参加で、統一した原水爆禁止世界大会が開けなくなり、1985(昭和60)年には厚生省と日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)によって、画期的な被爆者調査がおこなわれた。また、日本被団協は、1984(昭和59)年に「原爆被害者の基本要求」を発表し、厚生省・日本被団協調査に全面的にとりくみ、その調査結果をもって1987(昭和62)年11月には、日本被団協始まって以来の大中央行動を成功させた。
このように、この5年間は国内外の反核平和運動にとっても、被爆者運動にとっても、重要な期間であったのである。
第2回国連軍縮特別総会と東友会結成25周年を期に
1982(昭和57)年度は、被爆者運動にとって、かなりあわただしい年であった。6月に国連で開かれる第2回国連軍縮特別総会にむけて、春から国内の反核平和の運動は沸いた。5月23日に代々木公園と上野で開かれた反核平和東京行動は、盆と正月が一緒になったように参加者で一杯になり、この行動にも、また国連に提出する統一署名運動のための街頭署名にも、たくさんの東友会の会員が参加した。
国連への日本被団協代表団には、今は亡き合田正巳常任理事と伊東壯が参加した。思えば当時の合田さんは元気だった。ロス(ロサンゼルス)の市民グループに呼ばれて語り部をし、部屋に帰ってきた合田さんを見ると、頬に口紅の跡がくっきりついている。「合田さん、鏡をちょっと見て」。鏡を見た彼は噴き出した。「なにしろ、被爆者はもててね。ダンスにつきあったらこの始末さ」。例のさらりとした調子で彼は笑いとばした。