【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来2
『沈黙から行動へ 東京のヒバクシャ30年のあゆみ』から
「東友会25周年から30周年へ」(伊東壯執筆)
東友会25周年から30周年へ4
1985(昭和60)年は被爆40周年の年であっただけに、日本被団協の運動は一段と高揚した。日本被団協は、国際的には核保有5カ国に代表を送って首脳へのメッセージを届け、またその他の欧米の平和団体との交流も盛んにおこなった。国会では野党援護法案の提出をめぐって、社公民と共産党との足並みがあわないということもあったが、日本被団協は「基本要求」の普及とそれに基づく国民署名運動を展開し、国民世論の力を結集して政府を包囲する運動を進めた。厚生省の被爆者対策予算はついに1千億円を突破し、また厚生省は10月、第3回目の被爆者調査を実施することになった。伊東(壯)は調査委員の一員としてかなりいろいろな提案をおこない調査の中に取り入れられはしたが、被爆者の現状を調査するという政府の大方針は動かなかった。
そこで日本被団協は独自の調査を展開して原爆被害の実相に迫り、原爆被害が基本懇のいうように「受忍」できるようなものではないことを実証しようとし、独自の調査を発足させた。
原水爆禁止世界大会は、広島の国際会議を現地広島の県評がボイコットしたことによって、事実上分裂への一歩をふむことになった。
東友会は、日本被団協の方針のもとに、核保有5カ国首脳へのメッセージを届ける運動に取り組んだ。6月にはアメリカへ小西悟、合田正巳、吉本トキ子の3人、10月にはイギリスに飯田マリ子、フランスへ山田玲子、中国には6月に伊東壯1人、10月に伊東壯と安藤賢治の2人、またその他、8月にギリシャへ永坂昭、11月にスイス・ジュネーブの米ソ首脳会談に小西悟の各氏を派遣した。核保有国首脳のうち、ソ連と中国からは日本被団協の考えに賛同するという返事が届けられた。
厚生省調査については、限界はあるとしても、もともと日本被団協の要求と運動の中で決まったものであり、その影響は援護法制定にとって重要な意味を持つので、全面的に協力することとなり、東友会も10月3日の調査に地区の会をあげて協力し、最終的には6933人が調査に応えた。11月1日には、日本被団協の調査が開始され、これにも1359人が応じた。