【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来2
『沈黙から行動へ 東京のヒバクシャ30年のあゆみ』から
「地区の被爆者運動30年の苦労と前進」(田川時彦執筆)
地区の被爆者運動30年の苦労と前進7
NGOシンポと国際活動
1977(昭和52)年夏、NGO(国連非政府組織)主催による「被爆問題国際シンポジウム」が日本で開かれました。(ウェブページ作成者による注: 「NGO(国連非政府組織)」は、正しくは「国際NGO(非政府組織)」)日本準備会が全国的に被爆者調査を実施し、それをもとに「被爆の実相とその後遺」について、国内外の専門家が討議し、その結果を国連を通して全世界に普及しようと計画をし実行したものでした。
東京の推進運動には、東友会が事務局をひきうけて、中心的な役割を果たし、被爆者も調査活動に多数参加、協力をしました。この運動を推進するために、各地区の会も、これまでになく積極的に地域の諸団体、関係機関、個人に被爆者問題を訴えていきました。そして、またも、国民的な大運動が、被爆者の運動を拡大させました。
NGOシンポ以後は、「ヒバクシャ」という言葉が国際語になるといった世界的な動向のなかで、翌1978(昭和53)年は、第1回国連軍縮特別総会が開かれました。東友会と地区の会は協力して、5人の被爆者代表をニューヨークに送りました。
それ以後も、ヨーロッパで起きた反核運動に、東京の被爆者はつぎつぎに出かけ、みずからの被爆体験から核戦争の阻止と核兵器の完全廃絶を訴えました。
ヨーロッパ以外にも、ソ連、中国、そしてまた、アメリカ、ギリシャ、ニュージーランドと、さらに第2回、第3回国連軍縮特別総会にも、各地区の会と東友会はカンパ活動をつづけ、被爆者代表を派遣してきました。こうした被爆者の国際活動は、世界の核軍縮の動きをつくりだす上で、大きな貢献をしました。
そして、国内的には、被爆者は一貫して原水爆禁止運動の統一を強く訴えつづけました。
【編注】国際活動は以前もありましたが個別のもので、国連規模の取り組みは、このシンポジウムが画期となりました。
被爆者の援護法要求が急速に国民的支持をひろげていくなかで、政府は、1980(昭和55)年12月「原爆被爆者対策基本問題懇談会」の答申を発表しました。
その答申意見によると、「およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいて」国民の被害は「すべての国民がひとしく受忍」すべきで、援護法を制定する国家責任はないと述べており、被爆者はもちろんのこと、マスコミや世論のつよい憤激をかいました。そして、被爆者の会は、直ちに、基本懇答申をのりこえるために、政府の責任を追及する運動を地域の支援者とともに展開していきました。それが、1981(昭和56)年から始まった「原爆を裁く国民法廷」の大運動でした。
