【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来2
『沈黙から行動へ 東京のヒバクシャ30年のあゆみ』から
「東友会25周年から30周年へ」(伊東壯執筆)
東友会25周年から30周年へ6
1986(昭和61)年度の日本被団協は、日本被団協の調査のまとめ(原爆被害者調査・第一次報告書――1986年12月8日発表)をもとに、「被爆者調査をふまえ、核兵器廃絶と原爆被害者援護法の即時制定をせまる大運動」を開始し(1987年3月から1988年3月)、調査結果にもとづいて「基本要求」の正当さと原爆被害が受忍できないものであることを広く国内外に訴え、「ふたたび被爆者をつくらないための国民署名」と「高齢化に伴う被爆者・遺族の緊急要求署名」の運動を推進した。
原水爆禁止運動では、日本被団協は市民団体とともに最後まで統一した世界大会の開催のために粘りつづけたが、どうしても総評・原水禁と原水協の合意がならず、統一した大会は開けなかった。
この過程で疲労と心労の極みに達して、私(伊東)が市民団体会議の席上倒れ、救急車で運ばれるという一幕もあった。なお、日本被団協はこの年、創立30周年の記念行事をおこなった。
東友会は、5月ソ連に伊東壯、5月から6月にかけてアメリカ・ネバダの核実験反対の集会に吉本トキ子、9月アメリカへ飯田マリ子、寺澤茂の各氏を送った。
8月には東友会「原爆被害調査」第一次報告という東友会独自の報告をまとめて発表した。そして12月には東友会独自に被爆者の要求をまとめ、4項目の緊急要求の請願を都議会に提出した。
また、原水爆禁止運動については、統一の願いをこめた平和行進や、広島・長崎の日本被団協主催の被爆者・遺族集会に代表が参加するとともに、市民団体とともに「86年平和のつどい」を開いてこれに参加した。
被爆者後援会の発足
この年(1986年)の特記すべき事項としては、東京原爆被害者後援会の発足がある。
日本被団協創立30周年を迎えるにあたり、この先被爆者の高齢化が進む中で被爆者運動はどうなっていくのだろうかという不安が全国的に広がっていた。それへの対策は後継者をつくることと被爆者をとりまき物心ともに援護してくれる仲間をつくることであった。
日本被団協でも「長期活動展望」や「平和基金」の構想が論議されていたが、東友会は従来からたくさんの東友会支援者をひとつにまとめ、東友会や地区の会を支援する会の構想を進め、関係者に相談を続けた。
そのかいあって、9月東京被爆者後援会が誕生し、代表世話人として石田忠、池田眞規、大川悦生の3氏、事務局長に高橋昌平氏が就任して、従来からの支援者はもちろん、新しい支援者も加わって、東友会を支える縁の下の力持ちになっていただいている。
なお、東京都の委託事業費は請願部を中心とした努力で85年度500万円、1986年度600万円に達した。さらに、東海寺の慰霊碑を目黒川の拡幅工事に伴って移動することについて都から話がもちあがり、長尾當代、安藤賢治の両氏を中心に都や東海寺との交渉がおこなわれた。また、1986年11月をもって川口信子さんを事務局に迎えた。