【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来2
『沈黙から行動へ 東京のヒバクシャ30年のあゆみ』から
「東友会25周年から30周年へ」(伊東壯執筆)
東友会25周年から30周年へ5
厚生省調査については、限界はあるとしても、もともと日本被団協の要求と運動の中で決まったものであり、その影響は援護法制定にとって重要な意味を持つので、全面的に協力することとなり、東友会も10月3日(ウェブページ作成者による注: 1985年)の調査に地区の会をあげて協力し、最終的には6933人が調査に応えた。11月1日には、日本被団協の調査が開始され、これにも1359人が応じた。
調査というのも、いざ実施するとなると大変な事業である。私(伊東)は、日本被団協のほうも調査委員長に就任し、厚生省・日本被団協ともに調査の設計にたずさわったのだが、率直にいって2つの調査は詳しすぎる調査表になってしまった。こんな膨大な質問に被爆者は答えてくれるだろうかという心配は、2つの調査委員会でたびたび問題になった。
特に厚生省の被爆者調査委員会では、1985(昭和60)年の調査委員の経験者は私(伊東)だけだったので、みんなずいぶん心配したが、私(伊東)は被爆者は必ずこたえてくれると言い切った。
結果は全国で86.7%の回収率となり、50年調査の82.2%を上回った。被爆者が年をとって調査などに応じきれないと見るより、今こそ思いのたけを述べたい思いにかられていると見るほうがやはり当たっていたのである。同時に、実施する当事者たとえば東友会は、調査の事前に学習会を開き、「手引き」をつくり、日本被団協調査の場合には協力者を準備し(東友会の協力員は309人)、一軒一軒をまわって書き方の指導までしたのであるから、調査と一言でいってもそれは東友会・地区の会をあげて訪問、相談、援助の活動でもあった。中には自分の年齢も、まして死んだ配偶者の年齢も覚えていない人もあり、そうした意味ではこれだけの数の調査を成功させた陰の努力は絶賛されてよい。
原水爆禁止世界大会の統一に向けた努力
1985(昭和60)年夏、広島はいろいろな意味で暑かった。原水爆禁止世界大会は市民団体の必死の統一にむけての努力も空しく、国際会議を広島県評がボイコットした。私(伊東)は国際会議で主催者を代表して主催者挨拶にたったが、今もって何の理由で総評系労組が大会を抜けたのか判然としない。しかし、おもしろくないことばかりではなかった。春ごろから新宿の山根操さんが広島・長崎に木を植えようと言いだした。「私は広島へ帰っても帰るところがないの」と彼女はいうのである。そこで、広島市に山根、長尾當代、田川時彦の3氏と訪れ、長崎市には、山本英典さんが交渉し、植樹の件を申し入れた。これがきっかけとなって、1986(昭和61)年4月1日、広島中央公園と長崎平和公園に「東京の木」が植えられた。
さらに同年10月には、東友会被爆40年記念事業チャリティ「反核・映画と音楽のつどい」が開かれ、また江戸川法廷も開かれた。同年3月には日野の会が結成された。なお、東友会事務局次長に山本英典、山田玲子氏が加わった。事務局員は、同年1月に樟山美紀さんが退職した。わずかな期間であったが村田未知子さんとともに東友会の大事な時期を支えてくれた。