【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来2
『沈黙から行動へ 東京のヒバクシャ30年のあゆみ』(伊東壯執筆)から
第2回 巻頭言にみる被爆者運動の思想1
東友会の30年 東友会会長 伊東壯
東友会が発足して30周年を迎えようとしている。東友会発足以来、その中にいた私にとって、30年という歳月は、あっという間に過ぎ去ったように思える。しかし、客観的に言えば、それは生まれた子どもが成人してさらに子どもをつくる、まさに1世代に相当する歳月なのである。それだけに、よくもここまで続いたものだという感懐を今さらのように覚える。
東友会が継続してきたのは、はっきりいえば東京の被爆者がその必要を感じてきたからである。もっと言えば、東友会を構成している地区の会、その地区の会をつくっている被爆者が必要性を感じてきたからである。さらには原爆被害が戦後、被爆者を苦しめ続けてきた深刻さ、被爆地を離れて大東京の片隅でひとりで耐え忍びうるほど原爆被害はなまやさしいものではなかったことが、もっとも根源的な理由である。今日、われわれの運動によって、国・都・区市町村の被爆者対策は一定の前進をみせてはいるが、それでもなおかつ、病気に、生活の困窮に、生きる意味の喪失に苦しむ被爆者は多い。まして30年前、どれほど多くの被爆者が苦しんでいたことか。この人びとが傷をなめあうように集まることは、水が低い所にたまるように必然的だったのである。かつて25年史の中で尾島事務局員が語っているように、「東友会に私が今までいたのは、淋しく暮らす70歳のTさんの『東友会だと自分の事務所だという気がして何でも話せる』という言葉や、死ぬよりほかに道がないと訴えた老夫婦の『たよるのは東友会だけです』という言葉を聞いてきたから」という状況こそが、東友会の存続を支えてきた根源なのである。
しかし、初期のほとんど見るべきものもない国や都の施策の中では、多くのこうした人びとに、地区の会や東友会が援助できることはほんとに微々たるものであった。相互のたすけあいでは、一人のひとを救うことすらできなかった。しかも、広島・長崎の原爆被害は日ましに風化させられ、核兵器は平和をまもる象徴のようにいわれ、核軍拡競争は拡大し核戦争の危機は思い出したくもない広島・長崎のあの日のことを思いおこさせ、被爆者に耐え難い新しい心の傷を与えた。被爆者が放置され、原爆被害が無視、過小評価され、さらに風化させられていくことに、私たちは耐えられなかった。
こうして、私たちは、相互扶助から前進して国に原爆被害者援護法の制定を求め、都・区市町村へ被爆者援護の強化を求める運動、さらに核戦争に反対し核兵器を全廃させる運動を展開していったのである。