被爆者相談所および法人事務所
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【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来2

『沈黙から行動へ 東京のヒバクシャ30年のあゆみ』から
「地区の被爆者運動30年の苦労と前進」(田川時彦執筆)

地区の被爆者運動30年の苦労と前進5

 地区の会による地区ごとの活動のなかで、次のような報告が多数寄せられています。

  • 東友会の名簿をたよりに一軒一軒被爆者を訪ね、一人、二人と会員を集めていきました。やっと番地をたずねあてても「何しに来たの」と言わんばかりの顔をされたり、ひどいときは、押し売りとまちがえられたりの苦労でした。
  • 被爆者は、戦後、政治のひどい扱いを受けてから、めったなことでは人を信用しなくなっています。被爆者の会の者が訪ねてさえ、迷惑がられたものです。
  • 声をかけても返事がないので、留守だと帰りかけたら、奥の方から年老いた男の人が這うようにして出てこられた。妻も息子も働きに行って昼間は自分ひとりだが足腰が悪く立つこともできない。食事もあてがいぶちで朝枕元に置かれたまま、便所にも行けず床でたれ流しですと涙をうかべて訴えられた。
  • O町にお住まいだったIさんは、被爆した苦しみと生活の苦しみから世をはかなんで、辞世の句「お飾りを幾つくぐれど追いつかず時代の波のおそろしや」と書き残し、焼身自殺をされました。当時の新聞にも載ったが、思い出すたびに胸がしめつけられ痛くなります。
  • H市の住宅にお住まいだった一人の被爆者、この方は体が不自由だったが、風呂に入ることが一番必要だったんですね。風呂桶がほしいということで、折鶴ネクタイピンを売ったお金で贈ってあげました。それは、たいへんに喜ばれました。
  • 比較的元気だった自分なんか、被爆者だと名のることさえおこがましいと運動にも参加してきませんでしたが、原水協の人と戸別訪問し、苦しんでいる被爆者に接したときは、目からウロコが落ちる思いでした。何もしないでいることが罪になると考えさせられたのです。高度成長だと言われる日本の首都のどまんなかで、被爆者がこんな姿で放置されている政治のあり方に、無性に腹が立ってたまりませんでした。
  • 会の予算に見舞品を計上し、西友ストアからバターを安くわけてもらい、一人2個ずつ役員が配って歩きました。これも、会費納入の高率につながったのかも知れません。
  • これまでは、自分が被爆者だと話すと、どんな差別を受けるかとおそれていましたが、気心の知れた被爆者同士の懇親旅行のときは、広島弁や長崎弁までとび出して、ほんとに安心して話せます。
     「ほんまに原爆は、いぶせかったですのう」、「アメリカは、あんなひどかことして、よかことはなかとけん」、「国家補償いうと難しいんじゃ。国の責任で、原爆の被害をまどえ、言うことよの」

 このようにして被爆者の要求にこたえる地区活動は、東友会の運動も力強く支えていきました。東海寺への慰霊碑建立、広島・長崎に墓参団の派遣、東京の被爆者実態調査、援護法制定要求の座り込みや国会請願デモなど、各地区の会が力を出して成功させてきました。

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