【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来2
『沈黙から行動へ 東京のヒバクシャ30年のあゆみ』から
「地区の被爆者運動30年の苦労と前進」(田川時彦執筆)
地区の被爆者運動30年の苦労と前進3
1960(昭和35)年末までの2年間には、実に21の地区の会が独立・出発をしました。おどろくほどの急速な組織率だといわねばなりません。これは、戦後12年間、苦しかった沈黙を破る被爆者みずからのやむにやまれぬ立ち上がりであったといえます。そして、いまひとつには、大きく盛り上がった原水爆禁止の国民世論のなかで、自治体をふくめた広範な人びとのあたたかい理解があったこと、わけても原水協を中心とした地域の方がたの力強い支援の努力があったことを忘れることはできません。このことは、各地区の会の創立、あるいは再建の経過をみても、随所に報告されています。
被爆者運動の危機、地区活動の停滞
あれほど、次つぎとすすんだ地区の会の組織化が1961(昭和36)年からは、とたんに皆無となりました。
この時期は、日本の原水禁運動も「安保問題」に始まって「核実験問題」をめぐって、次つぎと分裂を起こし、その波及で日本被団協の運動も大混乱を起こし、総会も開けない状態がつづきました。
東友会も、各地区の会も、かろうじて団結だけは守りましたが、現実の問題として、会員の結集が弱体化し、財政的にも困難をきたしてしまいました。1963(昭和38)年末には、ついに東友会も解散寸前にまで追いこまれました。
しかし、こうした停滞の危機をのり切るために地区の会と東友会役員は、さまざまの努力をつづけました。東友会の財政確保のための街頭カンパや市川女優座の募金公演など地区の会が下から東友会を支えたのです。そのほかにも、被爆者の要求調査の実施、それにもとづく自治体への請願、意見対立のなかでの統一理論による日本被団協のリードなど、役員たちも必死の努力を重ねています。
市川女優座の少女歌舞伎公演をしたとき、各地区の会は、必死で切符を売りさばいた。A氏は、責任枚数が売れなかったといって丸坊主になって常任理事会にのぞんだ。当日、応援にかけつけた被爆者のなかには、日当を棒にふった失対被爆者もいた。(『首都の被爆者運動史』東友会編)
地区の会を再生させた6・1大集会
1966(昭和41)年6月1日、略称「6・1集会」と呼ばれる「東京都原爆被害者をはげます集い」が、都立体育館で開かれました。この集いは、被爆者救援活動の強化を方針にした東京原水協から東友会に申し入れがあり、広範な人びとのよびかけで実行委員会がつくられました。都内各地域の被爆者の結集と会の組織強化もふくめて集いの成功をめざしたものでした。