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【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来2

『沈黙から行動へ 東京のヒバクシャ30年のあゆみ』から
「地区の被爆者運動30年の苦労と前進」(田川時彦執筆)

地区の被爆者運動30年の苦労と前進1

地区の会続々と誕生

 被爆後12年をへた1957(昭和32)年4月、やっと「原爆被爆者の医療に関する法律」(原爆医療法)が制定・施行されました。
 「原爆被災者の会」が目標にかかげていた「医療を政府の手で」が、不十分ながらも緒につき、被爆者手帳が交付され始めました。会は、これを機会に、地域から自主的な組織が生まれることに期待をかけ、1957(昭和32)年12月にいったん解散をしました。
 暗にたがわず、解散わずか1カ月後の1958(昭和33)年1月には、都内で初めての地区組織である「品川被爆者の会」が生まれました。

 1957(昭和32)年の暮れ、区の教育委員会が年末義援金で被爆者に見舞品をくれ、そのとき集まりがありました。氷雨の寒い日で、参加は片岡さん(後に会長)とわたし(市岡)だけでしたが、そこで教育委員会や原水協の人、山口さん(後に東友会初代事務局長)に会いました。義援金の余りを会をつくるために使ってほしいとのことで、1月早々に会をつくりました。

 つづいて、杉並光友会(2月)、渋谷明友会(3月)、目黒萠友会(3月)、国立被爆者の会(7月)、世田谷同友会(7月)が発足し、東部6区の「江友会」(8月)のように、地区独立をめざしながらも、当面は連合体として誕生した組織もありました。
 さらに、板橋みのり会(9月)、新宿新和会(9月)、港区港友会(10月)、大田誠友会(10月)、中野長広会(10月)、北区双友会(11月)、国分寺国分会(12月)とつづき、1958年(昭和33)年だけで14の地区の会が組織されました。
 こうした気運が盛んになるなかで、「東友会」も、新しい地区の会の協議体として、1958年(昭和33)年11月16日に結成・発足をしました。

 広島でがんばっていた市川さんが引っ越してきて、第1回原水禁世界大会の杉並代表団の団長といっしょに、ぼくを訪ねてきました。大会のカンパが十数万円あるから、これで会をつくってくれと言われて、半分にわけて、一方は杉並の会結成に、残りは東友会の結成のために使いました。(東友会初代代表理事 行宗一氏)

 ボロ自転車で、目黒じゅうを駆けずり回りました。酔ったおじさんに「何しに来たか」とどなられたりしながらも、ずいぶん回りました。(東友会第二代事務局長 小島利一氏)

 ぼくは当時教師でもあり大学院生でした。原水禁運動が、地元の被爆者を無視していることに腹を立てていました。国立で会をつくり始めたのは、1957(昭和32)年の初夏のことです。(東友会現会長 伊東壯氏)

 その後も、八王子・町田の「八南被爆者の会」(1959年12月)、狛江被爆者の会(1960年3月)、武蔵野友の会(1960年4月)、三多摩被爆者団体連絡会(1960年6月)、江戸川被災者の会(1960年)、墨田被爆者の会(1960年)、足立足友会(1960年9月)、江東江友会(1960年)、文京被爆者の会(1960年)と、結成がつづきました。

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