【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来2
『沈黙から行動へ 東京のヒバクシャ30年のあゆみ』から
「地区の被爆者運動30年の苦労と前進」(田川時彦執筆)
地区の被爆者運動30年の苦労と前進1
被爆者の戦後史
わたしたちは、広島・長崎の〈あの日〉から、43年余りの歳月を数えます。そして、この東京に被爆者の会「東友会」を結成してから、今年で30周年を迎えました。
被爆当時、17歳の少年ですと、30歳の時に東友会や地区の会が結成されはじめ、現在は60歳を迎えることになります。
原爆地獄の世界から、かろうじて生き残れた被爆者の戦後43年の人生は、決してなまやさしいものではありませんでした。
敗戦後直ちに、アメリカ軍の占領下、原爆被害は国際的にも国内的にも蔽い隠され、被爆者が体験を文字にすることさえも自由ではありませんでした。しかも、その間には、被爆者がつぎつぎに亡くなり、もっとも救済の必要なときに、日本の冷たい政治の放置が12年間も続きました。
世界で初めての核戦争を体験した被爆者は、得体の知れない原爆症が「明日はわが身に」といった恐怖にさいなまれ、からだ・こころ・くらしの苦しみから一日も逃れることができませんでした。被爆者のなかには、生きる意欲すら喪失して、みずから命を断つ人も少なくありませんでした。
被爆者にとって生きるということは、常に原爆(核兵器)とたたかうことを意味しました。そして、原爆によってこわされた人間性を必死にとり返すたたかいでもありました。
東友会前史
第五福竜丸がビキニで死の灰をかぶり、原水爆禁止の声が大きく盛り上がった1954(昭和29)年の11月のことでした。
日赤中央病院で、東京大学の都築正男博士によっておこなわれた健康診断を受けた被爆者たちが、初めて東京で集まりをもちました。そして、そのなかの有志が世話人となり、たがいに連絡をとりながら、翌1955(昭和30)年の4月、「原爆被災者在京人会」をつくりました。
つづいて1956(昭和31)年の4月には、他府県の会とも連絡をとる東京の「原爆被災者の会」が結成されました。この会は、いわば東友会の前身といってもよいものですが、当時はまだ「原爆医療法」も実現していないころで、手帳所持者の名簿もあるわけではなく、現在のように地区の会が組織されるまでにはとても至りませんでした。
(当時の状況を示す次のような発言が残っています。)
運動を始めようと思って動きだしたのは、ビキニ被災の前からでした。原爆で、体の具合が周期的に悪かったし、被爆後に生まれた子どももあり、とても不安でした。
その頃、〈原爆を受けて困っている人〉の記事がよく新聞に出ていました。それで、この人たちを訪ねて回り始めました。板橋区の志村の人は、ひどかったですね。焼け跡の工場の、爆弾であけられた壁の穴から入ると、くずれかけた床の上に病人がいて、わたしは何もきくことができませんでした。
神保町の人は、ドブ板の上を体を斜めにしないと入れないような、しかも、真っ暗な中に住んでいました。
1954(昭和29)年に日赤でおこなった被爆者無料検診の300人の名簿を手に入れた人がいて、この人たちを中心に「原爆被災者の会」は結成されました。
1956(昭和31)年の8月には、他県の会にも協力してもらい、被爆者の実態調査をしました。都内1091人の被爆者に送付し、454人の回答を集めることができ、「医療法」制定のために提出したりしました。
当時これだけのことができたのも、被爆者自身が始めなければ政府は何もしてくれないと、みんなが思ったからでしょうね。