【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来2
『沈黙から行動へ 東京のヒバクシャ30年のあゆみ』から
「東友会25周年から30周年へ」(伊東壯執筆)
東友会25周年から30周年へ3
1983(昭和58)年の総会で名誉会長になった片岡強氏が9月29日に死去された。同氏は東友会の発足以来、代表理事、会長を歴任し、1963年危機後には東友会の再建、特に財政再建に力を尽くされるとともに、数々の東友会の運動に新機軸をうちだされた功労者であった。
同年、日本被団協の事務局次長に藤平典副会長、藤平氏に代わって小西悟氏が代表理事に就任した。また東友会の事務局次長は、米内達成氏が辞任し、永坂昭・江口保・亀井賢伍の3氏となった。
1984(昭和59)年、11月17日に日本被団協は、「原爆被害者の基本要求」と「被爆者の高齢化にともなう現行施策の改善要求」を発表した。そして、その普及と援護法制定を目ざして、1985(昭和60)年3月から4月にかけて「全国行脚」を実施し、1985年4月には行脚の終結を期に4月中央行動をおこなった。
1983年以来、運動方針にかかげて政府と交渉を進めてきた被爆者調査が本決まりとなる中で、調査員会の一員として伊東壯を任命させることに成功した。
さらに国際的な証言運動も引き続きおこなわれ、こうした中で日本被団協がノーベル平和賞候補に推薦され、一時はマスコミ対応でてんやわんやという時もあった。他方、原水爆禁止運動の中では、原水協の内部でトラブルが生じ、原水爆禁止運動全体に大きな影響を与える事態も起きた。
東友会はこうした日本被団協の運動に呼応して、1985(昭和60)年2月には、130人が集まって「東京行脚」のための決起集会を開き、都内への行脚を開始。行脚を進める中で東部ブロック集会も開催した。
東友会独自の国際活動として、田川時彦事務局長、山本英典常任理事の発案で、各国首都の市長宛の非核平和都市宣言の訴え文書をつくり、98カ国の首都に発送。7首都市長から返書がきた。
また藤原肇請願部長をはじめ請願部が中心になって、委託事業費の増額、原爆資料センターの設置などを対都請願を盛んにおこなった。委託事業費は1982(昭和57)年度320万円、1983(昭和58)年度352万円、1984(昭和59)年度400万円と、年をおって増えていった。
1984(昭和59)年度の東友会の運動で特筆すべきものの一つに、11月の東友会互助会の発足である。これも田川時彦事務局長の発案であるが、被爆者の会がもともと基調としてきた相互扶助を被爆者の高齢化にともなって再び蘇らせ、楽しく東友会の運動を進めようというのが田川さんの意図であった。会長には野口寿一氏、副会長には岡田芳正氏、安藤賢治氏が就任した。
7月には「猫の手会」が発足した。これも田川事務局長の発案である。東友会を手伝いたいという希望者が増えていく状況をみて、「東友」発送を頼めるなら経費節減にもなるし、被爆者同士が親睦を深めることにもなるという趣旨であった。山田玲子、保坂徳清、岡田芳正の3常任理事が中心になって組織の話が進む中で、村田事務局員が「猫の手も借りたい」ほど忙しいのだから、「猫の手会」という名前にしたらと言い出したのがこの名の始まりである。第1回の「東友」の発送作業には上記の3常任理事を含め4日間のべ39人が参加した。