被爆者相談所および法人事務所
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【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来

『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から

第23回 援護法制定の運動へ ―― 運動の高揚・組織の強化

 1977(昭和52)年4月16日、東京都シンポ推進委員会が発足し、東友会の片岡強会長が呼びかけ人代表となり、田川時彦氏が推進委員会の事務局長となった。東京推進委員会は被爆者調査を精力的におこなうとともに、同年7月と10月の2回にわたる東京シンポジウムを開催し、被爆者調査の結果を「東京の被爆者」として1978(昭和53)年7月に発表した。77シンポの東京での運動に、東京都が60万円の補助金を出したことも画期的なできごとであった。1977(昭和52)年8月には、分裂後初の統一原水禁大会が開かれ、多くの東友会会員が参加した。
 こうした日本国内の運動の高まりは、1978(昭和53)年6月に国連が開く第1回国連軍縮特別総会(SSD I)への国民代表団を派遣する運動へとつながり、国連請願署名運動と派遣運動は1977(昭和52)年秋から著しく高まった。そして、東友会の運動も新しく国際的な活動をつけ加えながら続けられた。このなかで、1978(昭和53)年1月にジュネーブで開かれたNGO軍縮会議に小西悟氏が参加。同年6月に開かれたSSD Iには、国民代表団の一員として東友会から吉田一人、中山多輝子、服部マリ子、藤原肇、高木留男の5人が参加し、活躍した。
 原水禁運動の統一の動きが進み、被爆者問題が国際・国内的に脚光を浴びるなかで、援護法制定運動の上でも新しい動きが生まれた。1978(昭和53)年11月には、日本生協連、地婦連、日本青年団協議会、日本被団協など11団体からなる「被爆者問題市民団体懇談会」(市民懇)が誕生し、1979(昭和54)年1月から「援護法制定2000万人署名」を開始。東友会もこれに呼応して2000万人署名の拡大につとめた。他方、国会では与党による援護法制定拒否の壁の厚さに焦りを感じた野党から、「医療法・特別措置法を一本化して援護法としたら」という意見も出たが、日本被団協は「中身の伴わない名前だけの援護法に賛成するわけにはゆかぬ」という態度を維持した。
 1979(昭和54)年6月、橋本龍太郎厚生大臣(当時)は、私的諮問機関として茅誠司氏を座長とする「被爆者対策基本問題懇談会」(通称=基本懇)を設置し、被爆者対策の基本的な考え方について諮問した。日本被団協は一貫して基本懇には批判的であった。
 こうしためまぐるしい動きのなかで、東友会は1978(昭和53)年4月1日、援護法制定の全国行脚の一環として「東京行脚」を出発させ、都内各地で集会や街頭行動をおこない、17日には東京都庁前で終結集会を開いた。
 東友会は組織的にも役員を充実させた。藤平典事務局長が激務のなかで体調を壊し田川時彦氏が事務局長に就任したのを機に、事務局次長は江口保、小西悟、米内達成、永坂昭、亀井賢伍の5氏が受け持つことになった。執行部の役員にも多くの人が加わった。
 財政的には、「会費でこそ会を支えるべきだ」の声が理事会や総会で強調され、1977(昭和52)年度からは会費収入が伸び、1979(昭和54)年度からは被爆者以外の都民から後援費をつのる制度(賛助費制度)も出発させた。