【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来
『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から
第18回 援護法制定の運動へ ―― 要求骨子の策定
1972(昭和47)年8月8日、「8月は祈りの月ばかりではない」と、東友会、関東ブロックの被爆者は国会陳情をおこなった。
この際、三木武夫国務大臣を訪れた東友会の3人(行宗一、伊東壯、田川時彦)は、延々2時間にわたって話し合いをおこない、三木氏の「援護法は絶対に必要であり、制定すべきである。そのためには議員提案のほうがよい。厚生省に任せていたのでは、いつになってもできない」という主張を聞き、ひどく勇気づけられた(編注1)。
私たちは当時、特別措置法から援護法へという運動を展開していたが、与党はもちろん野党も必ずしも積極的ではなかった。何とかして局面の転換を図ろうと模索していただけに、この三木発言、さらには翌1973(昭和48)年8月行動の中で自民党被爆者問題小委員長の初村滝一郎氏による「被爆者に対する身体的・精神的・生活的な援助は必ずしも十分とはいえない……被爆者の実状に即した援護法を、被爆30周年を期して制定する」という言明は、非常に大きな意味を持った。
こうした中で、すでに述べた通り、日本被団協が1966(昭和41)年につくった『原爆被害の特質と「被爆者援護法」の要求』(通称=つるパンフ)において、13項目の要求を出していたが、1968(昭和43)年の特別措置法の制定によって、その要求は部分的に充足されたため、1970(昭和45)年9月の日本被団協専門委員会から13項目の整理と再検討をおこない、同年の第15回日本被団協総会で「私たちの基本的要求」26項目を掲げていた。この中には「すべての被爆者にその総合的被害を償い、再び被爆者をつくらぬ決意をこめて、被爆者年金を支給せよ」ということなどの新項目も入っていた。この26項目をさらに整理するための要求骨子策定の小委員会が1973(昭和48)年3月12日、13日におこなわれ、それは「被爆者援護法案のための要求骨子」として、同年4月に発表されるに至るのである。
ところで、「被爆者年金」という構想には一つの裏話がある。
東友会は役員の「学習会」を、古くは1960(昭和35)年3月、八王子滝山城趾で開いたのを皮切りに何回かやってきている。この「つるパンフ」13項目から「私たちの基本的要求」26項目へ整理する時期であった1970(昭和45)年11月15日にも、千葉県保田で東友会学習会が開かれた。その討論の中で藤田秀子事務局員から「みんな何らかの形で国からの償いをという気持ちをもっている」という話があり、私(伊東)が「被爆者年金」という言葉に結実させたという経緯がある(編注2)。その後の要求骨子の(日本被団協での)討論をふくめて、東友会も「要求骨子」については、自らがつくっていったという責任をもっているといえよう。