【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来
『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から
第7回 東友会発足・草創3――被爆者運動の理論づくり
発足後しばらくの時期の東友会の活動のうち、対内的な部分についてはすでに述べたとおりだが、対外的な部分については、東京都に対して「原爆医療法の改正」「専任ケースワーカーの配置」などを陳情・請願しつづけた。また、東友会は発足とともに日本被団協に加入し、日本被団協役員として東友会代表理事のひとり行宗一氏を送った。事務所は同じ建物に同居していたので、東友会事務局と日本被団協事務局は緊密な連絡をとって仕事をすすめた。そして東友会は、原水爆禁止世界大会や日本被団協の国会請願へ他県の会とともに参加していった。当時の日本被団協のなかにおける東友会の地位は、それほど主導的なものではなかった。
筋道の通る理論的な運動を
その後の日本被団協の運動にとって重要な意味をつけ加えたのは、東友会役員の被爆者問題に対する理論的整理とそれに則って運動を展開しようという姿勢であった。
この時期、私(伊東壯)は、「多摩原水連ニュース」、「日本原水協ニュース」、「思想」、「原水爆被害白書・かくされた真実」などに次つぎに被爆者の現状と運動についての論文を発表した。日本被団協については「被団協通信」に「被爆者の実体と今後の方針」(1959・昭和34年)、「被爆者意識の前進のための試論」(1961・昭和36年)を書いた。東友会の山口清事務局長も「被団協通信」に「我々が常にぶつかるいくつかの問題について」(1960・昭和35年)、小島利一財政部長も「財政活動とは何か」(1961・昭和36年)を発表した。
1960(昭和35)年3月19、20日には、東友会のおもだった役員が八王子の滝山城跡で徹夜の理論学習会を開いた。その後の日本の被爆者運動を支える理論的基礎は、この時期の東友会のなかに芽吹いたのであった。
東友会事務局長の苦悩
東友会事務局長だった山口氏に呼ばれた私は、思いがけない相談を受けた。「家庭の事情で予期せぬことが起こり全財産を処分しなければならなくなった。とても東友会の活動をやれるような条件ではなくなった」。これまで、彼の全余暇時間は東友会のために費やされていた。広島で船舶兵として被爆し、戦後も長く闘病生活を送った彼にとって、おそらく東友会はたった一つの生きる上での拠り所であったのであろう。それは、私にいわせれば、山口事務局長の献身的な東友会の活動が結果としてもたらした犠牲であった。
東友会の常任理事会記録によれば、1960(昭和35)年3月を境にして、山口事務局長の常任理事会出席は途絶え始めた。同年11月6日、東友会は第3回総会を開いたが、そこに山口事務局長の姿を見ることはなかった。経過報告は山口氏に代わって次長の私がおこない、その他の議事も分担してこなした。この総会で、第2代事務局長に、小島利一氏が就任した。