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【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来

『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から

第12回 日本被団協の中核として1――被団協分裂の危機

 これまで述べてきたような、東友会の悲壮な再建活動のかたわら、今度は日本被団協が重大な危機に突入していた。
 1964(昭和39)年4月の被災三県連絡会議の発足を日本被団協理事長の森滝氏がリードしたこともあって、6月、日本原水協は森滝氏を除名し、日本原水協内(東京)にあった被団協事務所は広島へ移された。こうして、核禁会議、三県連、原水協の3団体の対立がそのまま日本被団協へもちこまれる形となった。そんな中で日本被団協は12月3日、第9会総会を開き、原水協加盟、脱退問題の討議をおこなおうとしたが、東友会は翌4日、市川女優座公演を前に、辛うじて伊東壯一人を理事として出席させた。当日の模様を「東友」29号(1965年1月15日発行)は次のように報じている。

 12月3日、日本被団協は、突然九段会館において全国総会を開催した。東友会は翌4日の歌舞伎公演をひかえててんてこまいの最中であり、しかも地元東京には何の連絡もなく、突然全国集会が招集され、議案についても当日の朝、議場で渡される不始末であった。東友会は理事として伊東氏を総会に送ったが、多くの重要議案は東友会の機関で審議される余裕はなく、伊東氏は冒頭、『総会の準備不十分につき、国会請願の活動者会議へうつすこと』を提案した。が議長は強引に会議をすすめ、挙句のはては、各地被団協の不統一が総会の中でバクロされる醜態を露呈し、議場はしばしば混乱におちいった。結局運動方針は保留となったが、広島はじめ各都道府県被団協内で意見が統一していないこと、組織がバラバラであることなどが解消される努力が地道におこなわれないかぎり、こんごの日本被団協の将来は危機にあふれているといえよう

 私(伊東)の提案は、ここで各派が平和運動問題で争えば、日本被団協は分裂する。議案は凍結し、みんなで一致できる「援護法」問題で、この被爆20周年をのり切れというものであった。東友会の現状を踏まえた代議員としては、原水協から脱退せよとも逆に中にとどまれともいいようがなかったのである。それは両者に煮え切らぬ態度にうつったかもしれぬが、「統一」を守るとは、「何が同じなのか」に焦点を合わせることが大切であり、「何が異なるか」で争うことではないと考えたからであった。
 「東友」29号の日本被団協の将来への危惧はみごとに的中し、日本被団協はその後1965(昭和40)年2月に代表理事会を開いて日本原水協は脱退したものの、対立の膠着のまま1年有余にわたる中央執行部の活動の停止を生じ、1965(昭和40)年は総会も開催することができぬ状態へと突入する。