【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来
『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から
第14回 援護法制定の運動へ ―― 「つるパンフ」登場
やがて、4月になって上京した森滝(市郎)氏と話し合いがもたれ、他方では、和田事務局員から都職労を通じて安藤(賢治)氏に伊東(壯)と話し合いたい旨の連絡があり、和田、安藤、伊東、尾島(愛子)で事務レベルの話し合いをおこなった。この間、1966(昭和41)年6月26日、日本被団協は1年7カ月ぶりに第10回総会を開き、理事長をめぐって選挙がおこなわれた結果、森滝氏を再選、副理事長に小佐々(八郎)氏、行宗(一)氏が就任した。和田氏との事務レベルの話し合いの中で、現在の被爆者問題を理論的に整理し、援護法の理論的根拠を明らかにすることが極めて大切であろうという点での意見の一致をみた。この結果は、1966(昭和41)年7月の第23回代表理事会に専門委員会の設置として提案され、庄野直美広島女学院大教授、山手茂東京女子大助教授と伊東が専門委員に就任した。8月、山手、伊東、和田の3人は箱根に投宿して「原爆被害の特質と被爆者援護法の要求」(通称=つるパンフ)を執筆し、10月、須磨における日本被団協代表理事会で伊東が説明し、援護法運動の基礎的考え方で代表理事全員の一致をみた。そして日本被団協のその後の統一した運動を活発に進める契機をつかんだ。
盛り上がる援護法制定運動
翌1967(昭和42)年に入ると、3月14、15、16日と日本被団協は「援護法制定」の大行動を開始した。この行動では、数寄屋橋座りこみ、バスによる都内デモ、請願大会、首相陳情などがおこなわれ、東友会が動員の主力であった。つづいて、6月14、15、16日にも、数寄屋橋座りこみ、駅頭宣伝をふくむ大行動、10月には「全国行脚」、11月には全国行脚中央集結集会、ティーチ・イン、12月14、15日には国会請願行動、1968(昭和43)年に入っても、1月には米国からの返還「原爆映画」の公開要求、3月には21、22日と国会請願行動がおこなわれ、やがて1968(昭和43)5月の「原爆被爆者の特別措置に関する法律」の制定をみるに至るのである。
分裂問題で身動きのとれなかった日本被団協が別団体のように活発に統一してこのように行動しつづけた先頭には、常に東友会があった。それ故に、1967(昭和42)年の日本被団協第11回総会は、東京選出の新しい代表理事の枠を設け、伊東が東京選出の初代代表理事に就任。1968(昭和43)年の第12回日本被団協総会では、代表理事の任務分担がおこなわれ、その中の一つに事務局担当代表理事がおかれたが、それにもまた伊東が就任した。これらは、当時、分裂の中で苦しんでいた全国被爆者の会が、東京の被爆者運動にどれだけ勇気づけられ、先進被団協として見ていたかをを示す証左にほかならない。