【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来
『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から
第4回 東友会前史3――組織化を支えたもの
1958(昭和33)年に入って、地区の組織がこのように急速に伸びたのは、当時の日本原水協、日本被団協の被爆者組織の強化という方針(日本被団協は56(昭和31)年の発足にあたってその方針を打ち出していた)を受けた東京原水協・各地区原水協の援助を抜きにしては考えることはできない。
しかし同時に、一つの地区組織ができると、そこの役員は他地域に出かけていって組織化の努力をするという被爆者役員の自発的活動も大きく寄与していることも見落とすわけにはいかない。
例えば、私(伊東壯)の住んでいた「国立被爆者の会」は、東京原水協の服部成己事務局員と被爆者の小島利一氏が何度も国立に足を運んで、私や国立原水協の赤松宏一事務局長に会った挙句に誕生している。一方、会を発足させるまで、世話人の私は被爆者だといわれる人の所在を聞くと何度も何度もその人を訪問して説得し、やっと一緒に会をつくる決心をさせるという経緯をくり返したものである。今は故人となられたが、のちに東友会で熱心に活動された成井弘文国士舘大学教授の場合には、一番初めは門前払い、2回目に「私も広島生まれで」という私の言葉でやっと戸を開けてもらえた。やがて広島原爆でお母様と一人娘を失われ、老夫婦だけで毎日を耐えているという本当の身上話を聞けたのは、5回目か6回目の訪問の時だったような気がする。これは単に私だけのことではなく、当時の役員のほとんど全部が経験して来たことである。すでにみたように、「ひっそりと、政治から離れ、原爆を忘れていたい」という大部分の人が思い続けているふところへ飛び込んで会をつくるわけだから、やはり大変なことであった。
全都の組織づくりへ
さて、全都的な会をつくろうという話は、早稲田大学で開かれた第4回原水爆禁止世界大会の中での日本被団協第3回総会に出席した後、東京の地区被爆者代表が集められたのが、私にとっては最初であった。しかし、記録によれば、その前に5月10日、6月5日、7月5日と品川、杉並、目黒、渋谷の4つの会の代表者たちが話し合いを進めていたのである。
その後、発足のための東京被団協結成準備委員会が9月27日に結成され、10月18日、10月20日、10月26日、11月9日と5回にわたる準備委員会がもたれ、そこで規約や役員などを決めていった。
私の記憶では、準備委員会で一番議論になったのは、「会の性格」だったような気がする。当時原宿にあった全造船会館の古びた木造2階の暗い電灯の光の中で、黒板に向かって一生懸命、会の性格づけの説明をしていた小島利一氏の姿が今でも忘れられない。