被爆者相談所および法人事務所
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【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来

『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から

第15回 援護法制定の運動へ ―― 東友会の底上げ

 東友会は、1966(昭和41)年から1968(昭和43)年の間にも、独自の新事業を開拓しつつ、着実に発展に向かってその歩みを進めた。この間の行事で最大のものは、1966(昭和41)年6月の「東京の原爆被害者をはげます集い」と、1967(昭和42)8月13日に完成した「慰霊碑」の建立である。
 通称「六・一」と呼ばれた「はげます集い」は、東京原水協の赤松宏一事務局長からの被爆者救援活動の一環としての申し入れに端を発した。東友会は特定の団体色の強いものは困るという意向を強くもっていたので、極めて広範な人びとが呼びかけ人となって実行委員会が生まれた。1966(昭和41)年6月1日、当日は折からのはげしい雨に見舞われ、また横須賀に米原子力潜水艦の入港反対の諸団体統一集会もあったので、参加者の数も危ぶまれたが、千駄ヶ谷の東京都体育館は被爆者と都民約1万人でいっぱいになった。被爆者の参加者には、各区ごとにバスがしたてられ、区内をめぐって被爆者を集め、体育館に運んだ。多くの来賓のあいさつ、催しものがあり、会場の片隅では、民医連の医師による「健康相談」もおこなわれた。熱気に包まれた会場では、感動のあまり壇上にかけのぼり、21年目にやっと自分の被爆体験を告白し訴える被爆者も出た。東友会にとって何よりも大きな意義があったのは、この集会に参加したたくさんの被爆者の中から、東友会の活動の中心になる多くの人びとを得たことであった。1960(昭和35)年以来、東友会の地区の会の新設は止まっていたが、1965(昭和40)には、立川、昭島、府中に会が生まれ、1966(昭和41)には豊島、中央、千代田、三鷹、小金井、町田、保谷に会が生まれた。そして、田川時彦氏、下山茂氏、吉本寛三氏、矢野喜一郎氏、北島ます子氏、結城一等氏、本田孝夫氏、松村千恵子氏、飯田登志子氏、沢村美知子氏、福島勝男氏、石飛力氏、丸本規雄氏らは、この「六・一」のあと、1966(昭和41)年6月19日の東友会第8回総会において新しく常任理事として執行部へ参加した。いわば「六・一」をひとつの発展の契機として、東友会の活動家の層はその広さを大きく増したのである。
 1967(昭和42)年の東友会第9回総会では、さらに新たな人たちが加わり、常任理事の数は47名に達した。この時期、老齢のため及川義右衛門氏が代表理事を勇退。事務局長は伊東(壯)が継続し、次長には田川時彦氏が就任した。

広く、人の身長の8倍はあろうかという高い天井の舞台の上に、数十人の人が立っている。舞台奥側には団体の旗を持った人も立っている。縦に広がる「豊島」の旗以外は、旗は丸まっていて内容はわからない。最前列中央の20人ほどが、「被爆者は医療・くらしの保障・損害のつぐない・平和を要求します」と書かれた横断幕を広げ持っている。その横では数人が「東友会」の旗を広げ持っている。舞台の天井から下げられた「東京の原爆被害者をはげます集い」の横書き看板の文字の高さは人の身長くらい。その下に折り鶴イラストの形の看板があり、こちらの高さは人の身長の1.5倍ほどある。さらに下には大きいスクリーンがさげられている。舞台下の座席は参加者で埋まっている。
文字どおり東京の被爆者を励まし、被爆者と都民の連帯感を大きく育み、東友会の発展のきっかけとなった「はげます集い」(1966年6月1日)