【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来
『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から
第8回 東友会発足・草創4――分裂の波と守るべき団結
1961(昭和36)年から1963(昭和38)年にかけては、日本の原水爆禁止運動に分裂の波が押し寄せた時期であった。
すでに1959(昭和34)年の第5回原水爆禁止世界大会で、翌1960(昭和35)年の安保条約改定期をひかえて、「安保論議」がたたかわされ、それをめぐっての対立が生まれていたが、1961(昭和36)年、自民党、同盟系は原水協を脱退し、新しく「核禁会議」を発足させた。1962(昭和37)年には、広島で「広島・長崎原爆被爆者大会」が開かれ、日本被団協とは別に「全日本被爆者協議会」が誕生した。この1962(昭和37)年の第8回世界大会では、ソ連が核実験を再開したことへの抗議問題をめぐって社会党・総評系代表の退場さわぎがあり、同じ時期に開かれた日本被団協第7回総会では、大分、大阪、兵庫、京都、愛知、熊本、滋賀、富山、徳島、香川、岡山の11府県から、日本被団協は「日本原水協(編注)と同時に核禁会議へも加盟すること」「さもなくば日本原水協を脱退すること」が提案され、結局日本被団協は日本原水協にとどまりはしたものの、まさに分裂が日本被団協にも波及した。
さらに1963(昭和38)年の第9回世界大会は分裂がいっそう進み、1964(昭和39)年3月には原水禁国民会議の前身である「被災三県連絡会議」が結成された。分裂は暴風のように被爆者の上にも荒れ狂った。
役員体制の縮小
東友会は、この時期、原爆医療法の円滑な運用に重点をおき、相次ぐ核保有国の核実験に抗議をくり返した。特筆すべきことは、1961(昭和36)年1月、東友会、東京都医務部(当時)、健診病院の三者懇談会を開いて健康診断の充実をはかったこと。同年8月、東友会・東京原水協・原水禁宗教者懇談会の共催で、千代田公会堂において初の原爆死没者慰霊祭をおこなったこと。1962(昭和37)年4月から、東京都から「被爆者健康指導の事業委託」を受けるに至ったことである。
役員・事務局もこの時期、大きく変わった。1961(昭和36)年11月5日の第4回総会は、役員について思い切った縮小がおこなわれた。第3回総会の時、代表理事4人、常任理事33人を数えたが、実際の会議への出席者は上記の数からは遥かに少なかった。そうした意味で、執行部を思い切って縮小する方法がとられたのである。同時に、各地区の会は東友会の支部にすべきだとか、総会はそれまでの全会員による参加ではなく代議制にすべきだという議論もおこなわれた。こうして、第4回総会で選出されたのは代表理事3人、常任理事9人であった。事務局長は小島利一氏、次長には安藤賢治氏が就任した。
第5回総会でも代表理事、事務局長は変更なく、常任理事は11人、事務局次長は安藤賢治、伊東壯、竹沢丕衛の3部会長が兼任することになった。事務局員も、この時期に人が何度か入れ替わり、1962(昭和37)年4月からの業務委託開始を機に、尾島愛子氏が事務局員になった。