被爆者相談所および法人事務所
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【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来

『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から

第19回 援護法制定の運動へ ―― 首都の被爆者として

 1973(昭和48)年4月の「要求骨子」発表後の日本被団協の援護法制定運動は、急速に高揚した。とくに思い起こされるのは、同年11月6日から10日にいたる5日間の行動であった。私たちはこの行動で、各党に対して「要求骨子」に対応した各党ごとの「援護法案」の発表を求めた。野党は1973(昭和48)年から1974(昭和49)年はじめにかけて、それぞれの構想を発表した。与党・自民党では、先述したとおり「被爆30周年目途」という初村発言(前号掲載)をひき出したわけである。私たちは、11月行動では冷雨の降る中を、初めて厚生省前の座り込み、デモ、街頭宣伝を展開した。東友会も連日、最大限の動員でこれに対応した。
 11月10日の総括集会で、総括報告に立った私(伊東)は、老い、病み、苦しみぬきながら、かくもなお闘いをやめない人びとを前にして、あふれてくる涙をこらえることができなかった。私はつまってくる声をかみしめて報告した。
 「さらに、座り込みは11月行動に参加した3000名の被爆者の団結に強く寄与しました。そして5日間ずっと座り込んだ1人の婦人の被爆者は、つぎのように語りました。〈ちえあるものはちえを、力あるものは力を〉というのが被爆者の会の合言葉なのですが、『私は体もわるい、力もない。ちえもない。生活保護だからお金もない。だから私は、せめてじっと座り込むのです』といいました。毎日、徹夜に近い日を送ってきた執行部にとって、この言葉はどんなにはげましになったことでしょう。国民は、1973年11月、寒い風の中で、人類史上最初の、国際法違反の核兵器による被爆者が、かくも熾烈にたたかったことを深く銘記するでしょう」(11月行動総括報告)
 この中に出てくる一人の婦人とは、東友会の沢村美知子さんであり、その声を私に伝えたのは、田川時彦さんであった。しかし、これは沢村さんだけのことではなく、11月行動に参加した大勢の東友会や全国被爆者の姿そのものであった。
 1974(昭和49)年に入って3月29日、社会、共産、民社、公明の野党4党は「援護法」の共同提案をおこなった。これに呼応して、日本被団協の運動はさらに高揚していく。ほとんど連続的に国会請願行動、傍聴行動、デモ、街頭宣伝がおこなわれ、常に東友会と神奈川、関東ブロック諸県はその先頭に立ちつづける。
 こうして東友会の運動は、日本被団協の運動と一体化し、首都の会として政府交渉、国会請願の主力となり、そのために東友会は独自的活動への余力をなかなかさけない状態に入っていった。

「全被爆者の先頭に立って 11月行動」の大見出しの記事。「一人一人が参加して」「差し入れが続々」「最後の一枚まで」「広がった支援」「『やればできる』」の見出しが読める。
1973年11月の行動を大きく報道する1974年1月15日発行の「東友」第66号