被爆者相談所および法人事務所
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【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来

『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から

第9回 東友会発足・草創5――東友会解散の危機

 1963(昭和38)年に入って、小島利一事務局長が転勤で山形県に赴任したことにより、東友会運営の指揮をとれなくなった頃から、東友会の活動は急速に弱化した。小島事務局長は何回も辞表を提出したのだが、東友会常任理事会はなすすべを知らなかった。
 当時のことを、のちに尾島愛子事務局員が雑誌『未来』(1970年8月号)に書き残している。
 「その頃、東友会は、解散などという声もきかれて、役員も絶えて現れなかった。会にはお金もなく、私は誰にやとわれたのかと自分でも不思議に思うことがあった。そんな時でも貧しい被爆者、体のわるい被爆者は東友会に相談にきた。相談されてもどうしようもないことが多かった。それでも病院や福祉関係へ紹介しながら私は暮らした」
 当時をふりかえると、まず役員の活動力の低さ、それに従う財政上の極度の逼迫の2つが、この「38年危機」の原因として考えられる。役員の活動力の低さが引き起こされたのは、(1)役員層の薄さ、(2)役員たちの集団指導体制の欠如、(3)役員たちの東友会運営へのコミットの浅さ、責任意識の薄さ――などの諸因をあげることができよう。
 (1)の役員層の薄さは、第3回総会以来の「役員縮小」が逆目に出たと考えられる。(2)の集団指導体制の欠如は、東友会が発会以来一貫してもちつづけてきた体質であった。一応の機関運営はやるのだが、非専従の役員、それも自分の仕事を持っている人びとが役員である限り、役員中で特に東友会に熱心な人に東友会の仕事と責任と権限は集中しがちになる。その上、当時は役員同士の人間関係、いわば友情といったものが、まだごく一部の人びとの間にしか確立していなかった、あるいは全く確立していなかったというべきであろう。だから、行宗氏、山口氏、小島氏などは、東友会に個人的な全力投球をやりながら、他の役員に十分相談することがなくその力をひき出しえなかったのではないかと思われる。他方、代表理事・事務局長を除いた部分は、「あなた任せ」主義に陥り、私(伊東壯)などは担当した「広報」などの仕事はしたが、全体の運営には余り熱意と責任感がなかったということになる。これが(3)役員の責任意識の低さにつながる。
 より広くみれば、1962(昭和37)年ごろまでの東友会は、陰に陽に東京原水協なり、日本被団協事務局なりの援助があり、それが東友会の弱い体質をカバーしていたために本当は「自立」して歩いていなかったのではないであろうか。ところが、原水協も被団協も分裂の波にあおられ、かつ小島事務局長の辞任に遭遇して、東友会はその弱い体質を露呈させてしまったのが「38年危機」の真因であったような気がする。
 1963(昭和38)年11月半ばの常任理事会で、行宗代表理事から「解散やむなし」の提案がおこなわれ、一度は「解散」の決定がおこなわれかけたが、安藤賢治氏、長尾當代氏、永坂昭氏らから「待った」がかけられた。当日は、集まった役員もそれほど多くはなく、私なども欠席していたため、この問題の結論は、より多くの役員の出席の下でおこなわれるべきだという意見があり、「解散」は持ち越されることになったのである。