【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来
『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から
第3回 東友会前史2――初の調査と地区の会結成
1956(昭和31)年8月、「原爆被災者の会」がおこなったアンケートをみると、回答者は東京454人、その他府県45人(回収率39.1%)で、回答者は被爆地別には広島8割、長崎2割。20歳代、30歳代の男子が圧倒的に多く、被爆当時の職業は、軍関係3割、学生・生徒2割、家事・無職2割となっている。
興味深いのは、その要求である。国への要求について何らかの意見をもつもの49.4%と約半分。その中で最も多いのは「国家の手で健康診断や治療を無料で」80.5%、「病気のため生活に困る者に生活の保証を」15.9%、「傷害年金への不満」2.6%、「全然やる気のない政府に希望なし」0.9%。また社会に対しての要求で何らかの意見をもつもの33.0%と約3割、その中で最も多いのは「被爆者の気持ちを理解してそっとしておいて欲しい」56.4%、「興味本位の報道や科学的に正確でない報道は困る」38.0%、「原爆禁止運動や救援運動が発展して嬉しい」5.5%である。また、被災者の会に対して意見をもつものは、37.4%の約4割、そのうち最も多いのは「結成の主旨を守って政治的活動は今後もやらないでほしい」68.6%、「薬品の薬価取次の健康管理を強力にやってほしい」31.4%である。
これから当時の被爆者たちの姿を想像すれば、「ひっそりと世の中からかくれ、政治から離れていたい。しかし、国は何とか健康について面倒をみてくれればいい」ということになろう。これは今日援護法制定を当然の権利と考えている多くの被爆者の姿からは、隔世の感がある。他方一見、虫のよいように見えるこの被爆者の当時の姿には、「こころ」まで無力化させられた原爆の傷痕を見ることができ、同時にそれからの25年の運動が、被爆者の孤立・絶望・無力を解き放つ上で大きな意味をもっていたことを物語るのである。
ところで、「原爆被災者の会」は、医療要求を一応充たす「原爆医療法」が1957(昭和32)年4月に施行されたことを契機に、同年12月5日に解散した。
そして、わずか1ヵ月後の1958(昭和33)年1月19日、それとはまったく組織を別とする被爆者の会が品川区に誕生した。品川区、区議会、教育委員会、文化人クラブ、婦人団体協議会、原水協の後援で、品川被爆者の会が生まれたのである。つづいて2月9日には杉並光友会、3月16日には渋谷明友会、3月23日には目黒萠友会、7月20日には国立被爆者の会、同27日には世田谷同友会、8月1日には江東、墨田、葛飾、江戸川、足立、台東の6区を合同した江友会、9月1日には板橋みのり会、9月28日には新宿新和会、10月19日には港・港和会、同26日には大田誠友会、同日に中野長広会、11月2日には北・双友会が、それぞれ発足。この17区1町、13組織をもって、東京都原水爆被害者団体協議会(東友会)は、1958(昭和33)年11月16日に発足したのである。