【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来
『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から
第1回 はじめに 被爆者運動の人類史的価値
当時(1982年)、東友会副会長だった伊東壯さんが書いた「首都の被爆者運動史」は、次の文章から始まります。
四分の一世紀というのは、人類数百万年の歴史からいえば一瞬の出来事である。しかし、それがどんなに一瞬の時間であろうとも、歴史にとっては、決定的な意味をもつことがある。
東京の被爆者が集い寄って作った東友会の25年の歩みは、人類が21世紀に向かって切り拓いて行こうとする新しい歴史の歩みに深い痕跡をとどめるものである。いわば、被爆者運動を抜きにして、日本の原水禁運動を語ることはできず、日本の被爆者運動は東友会の運動を抜きにして語ることができないからである。
1982年、国連は第2回軍縮特別総会を開いた。総会そのものの不毛さにひき比べて世界的な反核草の根運動の高揚は瞠目に値するものがあった。草の根を支える民衆は、「ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ」を叫び、「核」を手段とした核大国の世界管理体制とそれに追随する一部同盟諸国の政策が日常的に侵害してる「生存と人権」の回復を求め、失いつつある未来を自らの手でとり戻そうとした。
だが、世界の民衆のこの姿は、被爆者にとっては戦後37年の自分たちの姿そのもののように映じる。アメリカの原爆使用によって「いのち・くらし・こころ」の全人間的な破壊に当面し、生きる望みを失う中で、しかもなお、生きる意味を自らの手で創り上げていくために、被爆者運動を始め、それを維持・発展させて来たからである。
広島・長崎を離れて首都東京に住む被爆者が、鮮烈に「あの日」のことを常に心に抱き、それを全国民、全人類の財産とするためにやりつづけて来た運動。それは今世界と日本の中で大きな蕾となって、開花しようとしている。
私は、東京・品川区東海寺にある原爆死没者の慰霊碑に痛恨をこめて誌されている一文を思い出すのである。(編注:「原爆犠牲者慰霊碑」は、2012年に葛飾区青戸平和公園内に移設されています。)
「その日の記憶をいずみのように鮮烈に抱き、核戦争の再びおきないことをねがい、その証言が地上にのこす一粒の麦たらんことを信じながら」