被爆者相談所および法人事務所
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【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来

『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から

第6回 東友会発足・草創2――組織の基礎固めに尽くす

 1958(昭和33)年から1960(昭和35)年ごろの東友会の活動は、対内的には財政の確立と組織の拡大、対外的には東京都との交渉、原水爆禁止運動への参加が主なものであったといえよう。いわば、基礎固めの時期であった。
 財政の確立については、すでに結成準備委員会の段階から話が出ていた「折り鶴バッジ」の作成が、小島利一財政部長の手によってすすめられた。1959(昭和34)年1月17日に発売されたこの「折り鶴バッジ」と「折り鶴ネクタイピン」は、びっくりするほどの売れ行きをみせた。この時期の2つの会計期において、東友会の全収入の6割はバッジとネクタイピンの売り上げによっていた。私(伊東壯)自身、高教組三多摩支部と協力して1週間に1万個のバッジを売った経験がある。1959(昭和34)年暮の「日本のうたごえ」には、役員がバッジの販売に出動し観客の座席を回ったりしたものである。
 このバッジの「折り鶴」のデザインはその後、被爆者運動のシンボルとして日本はもとより世界の平和運動のなかで、今日広く愛用されるに至っている。
 組織化の面では、この時期、三多摩地域の市町村で組織化がすすんだ。国分寺(当時は町)、八南(八王子市と南多摩郡)、狛江(当時は町)、武蔵野市に会が設立され、それらを統合した多摩被団協が発足した。
 6区が合同した江友会からは、葛飾区、江戸川区、墨田区、足立区がそれぞれ独立した。そのほか、練馬区、文京区にも新しい会ができた。こうした組織化の進展のなかから、その後の東友会を支える人たちが生まれた。
 日常的な活動を維持するために常駐する事務局員の必要性が議論され1959(昭和34)年7月に最初の事務局員として川島恭子さんが就任した。同年7月25日、東友会の事務所は港区功運町(現在の三田3、4丁目)にあった東京地評から、港区新橋6丁目にあった旧産別会館のなかに移った。ここには、日本原水協の事務所があり、日本被団協が同居していた。その隣の一室に東友会事務所が入ったのである。
 当時は、事務所に電話すらない劣悪な条件の下におかれていた。事務局員の勤務条件も過酷であった。それにもかかわらず、歴代事務局員は献身的な活動をつづけた。尾崎愛子事務局員は、当時のことを次のように語っている。
 「一番中心は組織化の仕事だったような気がします。役員のみなさんはお勤めの後、東友会へ寄られるから夜は遅かったですし、地区の会の設立準備に出掛けていくのですが、それはだいたい土・日でした。原爆医療法が施行されて健康診断が始まった時期でしたが、健診をおこなう病院が法律をよくのみこめていない。何度も足を運んで交渉したり説明したりしたものです」
 もちろん役員の方も大変だった。たとえば山口清事務局長は、会社が終わるとほとんど毎日、東友会事務所に行っていた。

「原爆被害者 救援バッヂ (意匠登録出願中)」と書かれたマッチ箱サイズと思われる紙の箱、折り鶴をかたどった金属製のバッジ2つ、図案化された折り鶴の浮き彫りが配されたネクタイピンが写っている写真。
当時のバッジとネクタイピン