被爆者相談所および法人事務所
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【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来

『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から

第21回 援護法制定の運動へ ―― 77シンポの意義

 国際的平和運動と援護法のたたかいのなかで、日本被団協や東友会にとってはもちろん、国際・日本の平和運動にとって一つの大きな道標となったのは、1977(昭和52)年8月に開かれた「被爆の実相とその後遺、被爆者の実情に関する国際シンポジウム」(77シンポ)である。
 その発端は1975(昭和50)年10月、国連派遣国民代表団の一員として国連を訪問した東友会の行宗一副会長が、日本被団協が託した書簡を国連事務総長に届けたことにある。書簡は、(1)核兵器全面禁止国際協定の締結、(2)国連の手による原爆被害の実相、被爆者の現状調査、(3)国連の適当な会議における被爆者の訴え、(4)8月6・9日を世界平和記念日とすることの4項目であった。このうち(2)と(4)は、国連派遣国民代表団全体の課題としてとりあげられ、国連事務当局も検討を約した。
 その後、1976(昭和51)年2月7日、ジュネーブのNGO軍縮特別委員会第21回会議は「原爆被害者に関する決議」をおこない、国際シンポジウム開催を提起した。この機にあたり、同年10月には日本被団協を代表して伊東壯が国民代表団に加わって国連を訪れ、(1)国連が主催してシンポを開くこと、(2)国連が主催せずNGO主催で開かれる場合も、(イ)事務総長の臨席、(ロ)国連費用による国際的専門家の派遣、(ハ)シンポの結果は国連の手で普及――を要請した。
 この結果、開催にいたった77シンポの「経過報告」にいう。「日本の民間代表団が1974年および1975年の2回にわたって国連本部を訪問し、1975年の代表団はワルトハイム事務総長と会見し、原爆の後遺について調査研究するために国際社会の援助を求めた。そして前記NGO委員会がこれをとりあげたときアイデアが生育し始めたのである」。やがて、1976(昭和51)年12月18日に日本準備委員会が結成され、代表幹事に行宗氏、事務局長に私(伊東)が加わった。さらに1977(昭和52)年1月28日にジュネーブで国際準備委員会が結成され、日本側代表には私(伊東)も参加した。
 77シンポは、第1段階に国際調査、第2段階にNGOと研究機関のシンポ、第3段階として、第1、第2の報告を聞くラリー(大衆集会)の3段階に分けて実施された。
 このなかで最も注目すべきことは、日本準備委員会が全国にわたっておこなった被爆者調査であり、全都道府県にシンポの推進委員会がおかれ、歴史的な被爆者調査がおこなわれたことである。それは、各地域での平和運動の統一を草の根的に引き起こし、被爆者と一般国民を結びつける役割を果たした。
 実をいえば、1973(昭和48)年の「被爆者援護法案のための要求骨子」発表以来、野党側の進捗がはかばかしくなく、いかにして援護法を獲得するかに、当時の日本被団協役員は最も悩んできた。そして、被爆問題を国民全体のものにすること、同時に国際化することとが、遠くとも一つの道であるとの結論に達していた。77シンポは、被爆者側にはそうした狙いをもったものでもあった。同時に、分裂した国内原水禁運動の統一をも願っていたのである。