【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来
『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から
第16回 援護法制定の運動へ ―― 被団協の支柱として
1969(昭和44)年に入って、8月の日本被団協第13回総会を機に和田日本被団協事務局員が退職し、日本被団協の事務局員が誰もいなくなった。同時に、財政は著しく逼迫していた。伊東(壯)は依然として、日本被団協事務局担当代表理事と東友会事務局長を兼任していたため、東京での日本被団協の事務は、すべて東友会事務局が引き受ける羽目となり、尾島(愛子)事務局員に主としてその任にあたってもらった。いわば、日本被団協の実質的事務局は、東友会となり、全面的に東友会は日本被団協を背負うことになったのである。
1968(昭和43)年の「特別措置法」の成立に対して、日本被団協は、それを一応運動の成果であることを認めたものの、「つるパンフ」で要求していた援護法に対して「肩スカシ」であると考え、援護法要求運動の旗を一層高くかかげて運動を展開しようとした。東友会を中心とした陳情行動はくり返され、1970(昭和45)年3月、4月にはそれぞれ3日間にわたる中央行動、6月には2日間にわたる行動を展開した。
さて、1970(昭和45)年8月、日本被団協第14回総会にはそれまでの理事長、代表理事制、代表委員・事務局長・代表理事制に改め、東友会からは、代表委員に行宗(一)氏、事務局長に伊東、また1971(昭和46)年から代表理事として田川(時彦)氏が執行部に加わった。1970(昭和45)年6月、9カ月にわたって空席だった日本被団協事務局員として伊藤直子氏が就任したが、事務局は依然東友会内におかれた。東友会は、逼迫した財政の中で苦闘する日本被団協を支えつづけた。
1970(昭和45)年9月20日に開かれた東友会第12回総会の「昭和44年度活動報告」にいう。
「日本被団協は44年度も援護法に向かって運動をすすめましたが、日本被団協自身さまざまな弱さをかかえていました。財政の問題、事務局員の欠員等々、これらのなかで、東友会は日本被団協を支え、理論的支柱となり国会請願の中心となるなど、日本の被爆者運動を進める上で支柱となりました」
この時期における東友会の独自活動の中で、注目すべきものは、1969(昭和44)年4月からの東京都委託事業120万円増額、1970(昭和45)年の交通費補助44万円新設とともに、「原爆被爆者の子どもに関する調査」(昭和44年10月実施、45年2月発表)、および1970(昭和45)年の7月13日から17日にかけておこなわれた「広島・長崎慰霊墓参団」であった。
後の二者(二世調査、墓参団)はいずれも、全国で初めての試みであり、依然として東友会の新機軸は、全国の被爆者運動に新風を吹きこみつづけた。