【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来
『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から
第20回 援護法制定の運動へ ―― 都援護条例の制定
1974(昭和49)年から1976(昭和51)年にかけてのはげしい日本被団協の運動にもかかわらず、国家補償にもとづく被爆者援護法の壁は厚かった。
一方、そのかたわら、東友会はいくつかの独自活動を進めた。
そのひとつは、東京都に対する陳情である。すでに述べたとおり、都の被爆者対策予算は1972(昭和47)年の法人化を境にして急速に伸び始めた観があった。被爆者対策の予算項目は、(1)委託事業費、(2)健診奨励費、(3)介護手当が、1971(昭和46)年度からほぼ確定し、1974(昭和49)年度には、(4)子どもの健診費が追加された。さらに東京都被爆者援護条例(以下「援護条例」)制定後の1976(昭和51)年には、(5)被爆者の子どもの医療費負担、(6)健診の際の被爆者本人の上乗せ分が追加され、総額3137万4000円に達した。1975(昭和50)年10月10日には、1971(昭和46)年以来、その制定を要求してきた「援護条例」の都議会における可決をみた。以後、都の被爆者対策費は急速な伸長を示す。
「援護条例」の意義と成立への道のり
この「援護条例」の制定は、1965(昭和40)年に初めて地方自治体の「包括的援護対策」要求をかかげ、1972(昭和47)年には新内容を盛り込みながら続けてきた運動の決算であった。
その途次、1971(昭和46)年10月26日の東友会常任理事会で「援護条例」の成文化が打ち出され、11月22日に東京都に陳情し、1972(昭和47)年の法人東友会第1回総会の運動方針にかかげられた。これを受けて1973(昭和48)年の日本被団協第19回総会は、1972(昭和47)年度の活動報告の中で東友会の介護料、都営交通パスの獲得を高く評価し、「これは東友会が、その長い闘いの基礎の上に、『都民の要求実現と民主都政をすすめる全都連絡会議』に結集する人びとと協力して実現したもの」であるとし、さらに1973(昭和48)年度運動方針で(東京以外の各県でも)「援護条例」の獲得に向かうべきことをうたっている。いわば、東友会に端を発した「援護条例」の獲得は、1973(昭和48)年度からは全国的課題となっていたのである。
こうした状況のなかで、1972(昭和47)年から請願陳情実行委員会が設置され、翌年1月、東友会も「全都連絡会議」に参加しながら、都への陳情・請願を強化していった。
「援護条例」制定後の東京都の施策の展開が、「被爆者の子どもの健康」と「一般健診の充実」に置かれたことは、1970(昭和45)年、1971(昭和46)年の東友会による「子ども調査」、東京都による「医療実態調査」の結果が下敷きとして反映しているというべきであろう。