【連載】東友会の歴史を学ぶ 先人たちと目指す未来
『首都の被爆者運動史 東友会25年のあゆみ』(伊東壯執筆)から
第5回 東友会発足・草創1――東京都全体の組織として
1958(昭和33)年11月16日、東京都原水爆被害者団体協議会(東友会)(編注)は、日赤中央病院講堂においてその産声をあげた。広い会場には数百人の被爆者が集まった。経過報告は山口清氏(渋谷)、活動方針は行宗一氏(杉並)、予算については小島利一氏(目黒)が提案し、片岡強氏(品川)が結成宣言(編注)を発表した。
この宣言では、被爆者の健康・生活の向上、反原水爆、そのための相互扶助がうたわれており、素朴ではあるが、今日もなお東友会の運動目標として生きている内容というべきであろう。当然のことながら、この趣旨は規約第3条の「会の目的」としても掲げられたのである。
地区の会の連合体
東友会の組織は、地区の被爆者を会員としていた地区の会の連合体であった。当時としては、地区の会の自主性、独立性に重点をおく組織形態が、東友会の成立経過から当然であったのである。
当初、事務所は東京地評のなかに置かれた。役員は地区の会からあまねく集め、年齢的には及川儀右衛門代表理事(世田谷)を最長老として当時の30歳代後半から50歳代が中心であり、20歳代というのは私(伊東壯)一人だった。このころの会の執行の中心は、山口事務局長を主軸に、小島、行宗の二氏であったといえる。