被爆者相談所および法人事務所
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あずま数男かずお原爆裁判

 東京・町田に在住していた被爆者、あずま数男かずおさんが、肝機能障害の原爆症認定を求めて起こした裁判です。原爆症認定の却下理由は、「肝機能障害の原因は、C型肝炎ウイルスであり、被曝線量は、同ウイルスに対する免疫力の低下や感染に影響を及ぼすほどのものとは考えられない」というものでした。
 あずまさんは長崎県立工業3年生(16歳)当時、学徒動員された三菱兵器製作所で魚雷の部品を製造中に被爆しました。爆心地から1.3キロ地点でした。背中一面、後頭部にケガ、左手肘から下に火傷を負い、大村海軍病院に入院。急性放射線障害で死線をさまよいました。また、ABCC(原爆傷害調査委員会)から継続調査を受けています。
 1981年(昭和56年)には、本人の自覚はなかったものの肝機能に異常数値が出て、要精密検査の指示を受ます。1984年ごろから足がだるいなどの症状が出て、1992年9月から10月まで立川第一相互病院に入院しました。その後も治療を受け、2週に一度の割で通院していました。2001年2月、新たに発症した肺ガンは原爆症と認定されました。しかし裁判は肝機能障害について争っているので継続しました。

あずまさんは2004年3月31日、東京地裁で完全勝訴します。しかし同4月12日、厚生労働大臣は不当にも控訴しました。

 地裁で全面勝利の判決を受けたあずまさんは「被爆者として苦しんできたことが認められてうれしい」と車いすの上で笑顔を見せ、「これでC型肝炎で苦しむ被爆者が救われるといいが」と話していました。
 厚労省による控訴の後、肝臓ガンが発見され入院。2005年1月29日午後1時18分、あずまさんは都内の病院で逝去。享年76歳。死因は肝不全。無念の死でした。国側控訴で精神的にも深いダメージを受けたあずまさんは、ベッドの上から「判決までがんばる」と語っていました。

2005年3月29日、東京高裁でも完全勝訴しました。同4月11日、厚生労働大臣は上告を断念し、 あずまさん側の勝利が確定しました。

 同時に厚労省は、あずまさんとおなじC型肝炎での認定を求める被爆者も原告として参加していた「原爆症認定集団訴訟」には「(あずま裁判の)判決は影響しない」と表明しました。亡くなられたあずまさんの意志と、被爆者がもとめる「認定行政のありかた」を完全に無視したこの姿勢を改めさせるため、判決を力にした働きかけが必要として、被爆者は集団訴訟でも奮闘しました。

2005年3月29日、東京高裁前で。
高裁「完全勝利」の報に歓喜。ただちに「上告するな」と行動

審理と運動の経過

 東友会がウェブサイトを立ち上げる以前の、第9回口頭弁論までの記事は掲載していません。ご了承ください。

第10回口頭弁論 2001年7月5日

 第10回の弁論は証人の採否のみ。東側弁護団が申請したうちの1人・肥田舜太郎医師(日本被団協中央相談所理事長)の採否が問題に。肥田医師について厚労省側弁護団は「採用すべきでない」と2度も文書で申請。「このままでは、原爆症認定裁判の歯止めにされかねない」と「原爆裁判の勝利をめざす東京の会」は、緊急に役員会を開き、次回口頭弁論までに署名を提出したいと話し合った。

署名3万人分を提出 2001年8月17日

 第1回の署名提出をこの日にしたのは、厚生省側弁護団の要請を受け裁判所が日本被団協中央相談所の肥田舜太郎理事長の証人採用に難色を示しているため。参加者は口々に肥田医師の証人採用をお願いするとともに、被爆の状況と戦後の苦しみを伝え、あずまさんへの公正な裁判をと訴えた。

第11回口頭弁論 2001年 8月24日

 肥田医師ら要請した証人全てが採用される。裁判所は、厚生労働省側の要望も配慮したのか、肥田医師にあずまさん側が尋問できる時間を60分に制限。厚労省側が「これまでの裁判で出された内容を今回の尋問に含めないようにしてほしい」と裁判官に要請したが、裁判官は、「内容は、なるべくこれまでの裁判と重複しないでほしいが、重なっても明らかにしたい点もあるだろうから、弁護団にまかせる」と回答。口頭弁論後、宮原哲朗弁護士は、8月17日の署名提出行動の様子を紹介し、「署名の果たした力は、たいへんに大きかった」と報告。

第12回口頭弁論 2001年10月30日

 東原爆裁判で地裁大法廷を使ったのは初めて。この日は、肥田舜太郎医師・日本被団協中央相談所理事長の証人調べとあって、傍聴席は定席の96をはるかに超える210人に。東友会からは98人が参加。傍聴は、参加者全員が傍聴できるようにと、3交代制となった。

第13回口頭弁論 2001年12月20日

 齊藤医師は、放射線によってあずまさんの身体の機能が危機的に低下していたことを明快に証言。続いておこなわれた国側の反対尋問は、放射線被害を否定しようとする幼稚な質問ばかりで、放射線被害の深刻さを逆に引き出す結果となり、傍聴席から失笑がもれ、「何もわかっていない」「もっと勉強してほしい」という声が出ていた。署名累計4万9000人分に。

第14回口頭弁論 2002年3月15日

 名古屋大学の沢田昭二名誉教授が、国・厚生労働省側の被爆線量評価は事実に反しており、これをもとに原爆症認定をおこなうことは誤りであると、具体的な事実を示して証言。黒い雨・黒いすすによる被曝について指摘。沢田証人はあらかじめ裁判所に提出していた意見書について「なぜこれを書いたか」との問いに「自分も広島の被爆者であるが、今の核兵器は広島型原爆の1000倍もの破壊力を持っている。核の恐ろしさを訴えなくてはならないとの思いで書いた」とのぺた。

第15回口頭弁論 2002年7月10日

 国側の証人は戸田剛太郎・東京慈恵会医大教授。肝臓病の専門医で「放射線の肝臓への影響は一過性で、慢性肝炎に原爆放射線は関係ない」と証言。これに対し東弁護団は、戸田証人が、「肝臓に影響を与える放射線量は1000ラドとされている」とのべていることを重視。「放射線影響研究所の文書では、被曝線量800ラドで100%死亡とある。1000ラドでは肝機能障害どころか、人間は死んでしまうのではないか」と質問。戸田証人は「私が調査したものではない」といいわけしながら、返答の言葉を失う場面もあり、傍聴者の失笑をよんだ。

第16回口頭弁論 2002年10月11日

 原告・あずま数男かずおさんが証言。被爆直後の被害状況、治療の様子や健康状態など原告代理人・安原幸彦弁護士からの尋問の一つひとつに、ことばをかみしめるように証言。「国は一番大切なことを忘れていると思います。原子爆弾を投下された責任は、被爆者にあるのではなく国にあるということを。国はこの原点に立ち返って、被爆者行政に取り組んでほしいと思います」とのべた。国(被告)代理人は、被爆直後にアメリカ原爆傷害調査委員会(ABCC)からあずまさんが受けた調査内容とあずまさんの証言が違うと再三言及していたが、証言でわかったのは、あずまさんの被爆直後の記憶が、瓦礫の下から「助けて」という男とも女ともわからない声を聞いたことだけであること。署名 累計6万5000人分に。

第17回口頭弁論 2002年12月18日

 沢田昭二・名古屋大学名誉教授は、「星正治 広島大教授の意見書」について、「DS86には問題がない」と述べていることについて、これまで星教授が書いてきた論文とまったく違っていることについてふれ、「事実に反し、あるいは不正確に書かざるをえなくなったのは、星氏の研究者としての資質を問われかねない問題として残念に思う」と述べた。斉藤紀広島・福島生協病院長は、被曝放射線量が10グレイ以上でないと肝機能障害がおきないという戸田剛太郎慈恵会医大教授の証言を問題にした。戸田氏が致死的な放射線量について裁判の場ではじめて知った経過を指摘。結論として「戸田証言・論文からは、慢性肝炎の発症に放射線の影響を否定する合理性はうかがえない」と述べた。署名7万人分に。

第18回口頭弁論 2003年2月3日

 あずまさん側弁護団から新しい証人申請、放射線影響研究所の藤原佐枝子臨床研究部副部長。藤原氏が放影研の研究誌に書いた論文に、肝機能障害の発症に原爆放射線が影響していることを示唆する記述があり、弁護団はこれを重視し、証人尋問を請求したもの。藤原氏の論文については、国=厚生労働省側も証拠として提出しているが、証人喚問の請求には難色を示した。

第19回口頭弁論 2003年4月14日

 証人は、広島の放射線影響研究所(放影研)の藤原佐枝子・臨床研究部副部長(医師)。藤原証人の証言から明らかになったのは、次の4点。

  1. DS86が使われてからは、残留放射線をまったく考慮しないDS86で被爆者を区分けし、被爆者の中で病気の発生を比べて、審査の基準にしていること。
  2. 放影研の資料でも、被曝線量が高いほど、慢性肝炎やC型肝炎の発症が多いこと。
  3. 放影研がC型慢性肝炎の発症と原爆被爆の因果関係についての研究を今も続けていること。
  4. 放影研の研究者である証人が、被爆が原因でその人の免疫が変わりC型肝炎にかかったという可能性を否定できないこと。

 東弁護団の内藤雅義・宮原哲郎弁護士は報告会で、国が被爆者の実態ではなく、統計学的な数字で原爆症認定審査をすすめている不当性が明らかになった、と話した。

第20回口頭弁論 2003年6月24日

 原告側証人の齋藤紀医師が、国側の戸田剛太郎証人の証言を批判する「第3意見書」を提出。意見書は、戸田証人が「肝機能障害を起こすには1000ラドの放射線被曝が必要」と言い張り続けている誤りを批判したもの。

地裁結審 2004年1月14日

 原告側弁護団が最終弁論。厚労省側の主張のおかしさを、原爆被害の実相、あずまさんがABCC(原爆傷害調査委員会)から受けた継続調査の資料、被爆者援護法の精神、松谷訴訟の最高裁判決などを引いて感動的な弁論。
 弁護士会館で報告集会。報告集会後、約1万1千人分の署名を提出。約8万8900人分に。

あずま裁判終結させよ」国会議員に連日の要請行動 2004年2月24日から27日

 12人の東京選出委員全員との面談が実現。厚労委員以外にも4人の議員と面会。広島出身の自民党の亀井郁夫参院議員は、面談中に受話器をとって厚労省健康局の仁木壯総務課長に「裁判で国が負けたら控訴することは広島の心情に反することだ」と要請。東京都副知事として活躍していた公明党の続訓弘参院議員も、「坂口厚労相にしっかりと伝える」と約束。腕のケロイドを見せて体験を語る被爆者に、若手の初当選の議員から「核兵器の被害は絶対に繰り返してはいけない。友人の被爆二世から体調が悪かったことを聞いたことがある」、「都議の頃から毎月送ってもらう『東友』を読んで理解している。応援したい」などという話が出された。

あずま裁判終結へ104団体に判決傍聴、対厚労省行動で要請 2004年3月8日から19日

 団体要請の初日3月8日は、連合、全労連、日本原水協、原水禁国民会議などを訪問。以後19日までに要請したおもな団体は、全国レベルと東京レベルの労組、生協連や青年団、主婦連、地婦連などの市民団体、年金者組合、病院、保険医協会など104団体にのぼった。

地裁判決・完全勝訴 2004年3月31日

 判決は、原爆被害について、「他に例を見ない凄惨なもので、多くの被爆者は莫大な量の放射線を全身に被曝したことに加え、残留放射能に被曝し、後障害の不安を抱き続け」ていると原爆被害の「特異かつ苛酷」な特徴をのべた。また、放射線についての「科学的知見や経験則は、いまだ限られたものにとどまっている」とし、「現時点」で「全体的、総合的に判断」すれば、「多大な放射線被曝がウィルス感染とともに慢性肝炎を発症、進行させる起因となっている」と判断。

焼き場の少年の写真 ジョー・オダネル氏、使用を快諾 2004年4月

 1945年9月の長崎で米従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏がとらえた、死んだ弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待つ長崎の少年の姿。「焼き場の少年」のタイトルがついたこの写真を、オダネル氏は、原爆症認定集団訴訟東京弁護団の土井香苗弁護士などの働きかけに原爆裁判の運動に使うことを快諾。東(あずま)裁判を控訴させない運動のなかで、この写真がハガキやポスターで広げられた。

厚生労働大臣、不当控訴 2004年4月12日

 「東判決に控訴するな」の声をよそに、厚生労働省は控訴を強行。控訴理由は、「肝機能障害と放射線との因果関係の判断に誤りがある」というもの。1審で国側が主張したのは、「肝機能障害を起こすのには、1000ラドの被曝線量が必要」ということだけだったが、長崎原爆の致死量は800ラド。国側は2審でも、この暴論を蒸し返すのか。

控訴審第1回口頭弁論 2004年7月13日

 弁論を聞いた裁判長は、「あずまさんは火傷をした。熱線と同時に放射線などを複合的に受けたと思われる。その被曝線量は示せるのか」「C型肝炎はウイルスが原因だとしても、ウイルスを受けた人がみんなC型肝炎になるわけではない。病気に弱くなる原因に、原爆があったとはいえないのか」などと、本質にズバリ迫る質問をし、これらを次回には分かるようにしてほしいと国に指示。

控訴審第2回口頭弁論 2004年10月26日

 法廷は100人の傍聴者と17人の弁護士で満席。入院中の原告・あずま数男かずおさんの代理人席には、東京をはじめ熊本、近畿、名古屋、静岡、千葉、仙台の弁護士も。
 横山聡・宮原哲朗弁護士が国側の控訴理由書に対する反論、近畿の尾藤廣喜弁護士が長崎松谷裁判と京都小西訴訟の判決にふれた意見陳述。
 裁判の前には、厚生労働省前の街頭で傍聴者が要請行動。

控訴審結審 2004年12月24日

 100席ある東京高裁101号法廷の傍聴席は満員、外にも40人を超える人びとがあふれました。弁論の後、傍聴席からわき上がった拍手を岩井俊裁判長は制止せず、3月29日の14時から判決を言い渡すと発言してあずま裁判の控訴審は結審。
 厚生労働省前では、200人が参加して1時間の座り込み・要請行動。被爆者、「東京おりづるネット」の人びと、応援にかけつけた各界代表がリレートーク。
 14時30分からは有楽町のマリオン前で、東友会、「東京おりづるネット」の70人は7人の弁護士とともに「サンタさん平和のプレゼントを!自衛隊はイラクから今すぐ帰ってきて!平和大好き!12.24平和行動」に参加。15時30分からは、ピースバード(原爆症認定集団訴訟を支える青年の会・東京)による路上コンサートとキャンドルサービスも。

あずま数男かずおさん死去 2005年1月29日

 あずま数男かずおさんが肝不全のため都内の病院で死去。享年76歳。あずまさんの死亡記事は全国紙4紙、主要地方紙に掲載され、注目を集めた。
  「国の控訴があずまさんの死期を早めたとしか思えない」「どんなに判決が聞きたかっただろうか」「あずまさんの無念を思うと、黙っていられない」という声を受け、東京おりづるネットと東友会は、「国は、被爆者が死に絶えるのを待っているのでしょうか あずま数男かずおさんに完全勝利の判決を」ひとこと署名をよびかけ、計400名近くのひとこと署名を判決までに裁判所に届けた。

控訴審判決・完全勝訴 2005年3月29日

 高裁は厚労省による控訴を棄却し、完全勝訴!あずま訴訟弁護団の高見澤昭治団長が、東友会、弁護団など連名の声明文を読み上げ、画期的によい判決であると説明。

判決後の連日行動と厚生労働省の上告断念 勝利確定 2005年4月11日

 厚生労働省前では、日替わりビラをまくなど昼休み要請行動が連日続いた。政党・議員要請などをうけ、尾辻秀久厚生労働大臣と妻・朝子さんとの面会も実現。厚生労働大臣は上告断念を表明、あずまさん側の勝利が確定。あずまさんがC型肝炎になったのは原爆が原因であると国が認定したことになったが、同時に厚労省は、あずまさんとおなじC型肝炎での認定を求める被爆者も原告として参加する集団訴訟には「判決は影響しない」と表明。亡くなられたあずまさんの意志、被爆者がもとめる「認定行政のありかた」を完全に無視したこの姿勢を改めさせるため、判決を力にした働きかけが求められている。