被爆者相談所および法人事務所
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あずま数男かずおさんの紹介

【注記】

 このページの内容は、主に「あずま数男かずお原爆裁判」の東京地裁での審理中(2001年から2003年)に書かれたものです。原爆症認定をめぐる現状は当時とは変化しています。この裁判の審理中に全国で始まった原爆症認定集団申請および原爆症認定集団訴訟、被爆の実態と裁判所の判断に従わない厚労省の認定基準改定(2013年12月)、その後のノーモア・ヒバクシャ訴訟など、被爆者と市民の運動を受けての国の対応によるものです。ただし、被爆者側の勝訴が続いたにも関わらず、制度は裁判所の判断に沿ったものになっていません。未だ、被爆者の願いや被爆の実相にふさわしいものとは言えません。
 また、あずま数男かずおさんは東京地裁での勝利後、厚労省の不当な控訴による控訴審の審理中、判決を待たずに亡くなられました。
 原爆症認定をめぐる最新の情報は、新聞「東友」のページをご覧ください。

あずまさんが裁判をおこすまで

あずまさんは長崎の人 稲佐町で育ちました

 あずまさんは、1928年10月10日、長崎市稲佐町で生まれ、育ちました。原爆投下時は長崎県立工業学校3年生(16歳)。当時、学徒動員で三菱兵器大橋工場で働いていました。

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あずま数男かずおさん

学徒動員先の三菱兵器大橋工場で被爆

 あずまさんが原爆被害を受けたのは、この動員先の工場で魚雷の部品を製造中でした。工場は爆心から1.3キロメートル。鉄骨づくりの工場はアメのようにたたきつぶされ、12,000人ほどいた従業員のうち2,000人余が即死しました。
 あずまさんは、気がついたときは工場のがれきの下でしたが、隙間があったため抜け出すことができました。あたりは日暮れのように暗くなっていました。近くにいた下級生が太ももに貫通傷をうけて苦しがっていたので、300メートルあまり離れた山林に運び、いっしょに避難していました。
 自分の傷を確かめてみると、背中一面と後頭部を負傷し、耳たぶも切れ、左手の肘から下に火傷を負っていました。
 水が飲みたくなって、浦上川で水を飲んでいたとき、救援列車が動いていることを知り、友人といっしょに線路に行き、列車がくるのを長い時間待ちました。午後7時か8時頃、すっかり暗くなってようやく列車に乗ることができ、大村の海軍病院に入院できました。

工場が壊滅し、家族には死亡の知らせが

 入院中に脱毛、下痢、高熱がつづき、急性放射線障害で死線をさまよいました。被爆から1週間ぐらいあとで、お母さんが訪ねてきてくれました。「数男は死んだと聞いた。ほんとうは生きていたんだ」と泣いて喜んでくれました。

ABCCの調査で被爆2カ月後「原爆症」と

 あずまさんは被爆後2年ほど、体調がすぐれず、仕事ができる状態ではありませんでした。あずまさんは、入院中に、アメリカの原爆傷害調査委員会(ABCC)の調査をうけ、明確な「原爆症」と診断されていました。このため退院後も、継続的な調査をうけていました。

身体に現れた原爆後障害 肝機能障害のため20年近い闘病生活

 あずまさんは、1981年に受けた健康診断で、肝機能障害が発見され、以後、入退院をくり返しています。このためあずまさんは、1994年2月16日に肝機能障害で原爆症の認定申請を出しました。
 しかし国=厚生省(現・厚生労働省)は、1995年11月9日、「あずまさんの疾病は原爆によって起きたものとは認められず、治癒能力も放射線の影響を受けているとは認められない」といって申請を却下しました。

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闘病中のあずまさん

原爆症認定申請を却下され1999年6月提訴

 あずまさんは1996年1月、却下処分には納得できない」と異議申し立てをしました。しかし国=厚生省(現・厚生労働省)は、1999年3月9日付で異議申し立ても棄却しました。申請から棄却までにはなんと5年以上もかかりました。
 このためあずまさんは1999年6月29日、東京地方裁判所に、申請棄却の取り消し、つまり原爆症の認定をもとめる裁判を起こしたのです。

最高裁が退けたDS86にこだわる厚生省

あずまさんの裁判で争われたのも“DS86”

 1999年6月の提訴以後、東京地方裁判所での裁判(口頭弁論)は、2004年1月14日の結審までに計20回おこなわれました。厚生労働省の不当な控訴による控訴審では3回の口頭弁論がおこなわれました。

 審理の中で、はじめにあずまさん側がおこなったのは、主に「求釈明」の手続きでした。これは、国=厚生省(現・厚生労働省)側があずまさんの申請を却下した理由について、不明確な点を正確にするように求める手続きです。
 そのなかで分かってきたことは、国=厚生省(現・厚生労働省)がおこなう原爆症認定審査の判断基準は、「DS86」という放射線被曝線量表だけだということでした。
 「DS86」は、アメリカ政府がネバダの核実験で得たデータから作成したもの。爆心地からの距離がこのくらいだと被爆線量はこのくらいだ、ということを表したものですが、残留放射能等についてはほとんど考慮されておらず、これを全面的・画一的に被曝線量規準として採用することには専門家からも疑問が出されています。そして、2000年7月18日の「原爆松谷裁判」最高裁判決でも「未解明な部分が多い」とされ、認められなかったものなのです。
 12年間争われた「原爆松谷裁判」で、国=厚生省(現・厚生労働省)が最高裁まで上訴したのは、この「DS86」の正当性を裁判所に認めさせようとしたからです。

雨の中、東京地裁へ傍聴に集まった人たち
第5回口頭弁論の行われた2000年9月11日東京地裁前。傍聴に集まった人たち。

国の判定会議 審査は規準なし議事録もなし

 2000年6月4日、あずまさんの4回目の口頭弁論裁判で、弁護団が質問しました。「原爆症と認定する基準は、何であるか」。国側「基準はありません」。弁護側「同じ肝炎でも、原爆症と認定している例と、却下している例がある。基準がなければ、認定、却下の区別はできないはずだ」。国側「認定は個別におこなっています」。
 弁護団「では、認定を担当する医療審議会でどんな議論が交わされて判断を下しているのか。それを示す議事録はあるか」。国側「議事録はございません」。
 法廷がどよめきました。弁護団の「人間の生涯を左右する決定をするのに、基準も、議事録もないとは無責任きわまる」との発言は、傍聴席の私たちの気持ちと一緒でした。

C型肝炎 京都の裁判でも被爆者が勝訴

 国側が「DS86」という放射線被曝線量にこだわるのには、もう一つ理由があります。あずまさんの肝炎はC型肝炎で、最近の医学でウイルスによる伝染性の肝炎とわかったものです。京都で起きた原爆症認定裁判も、原告の被爆者はC型肝炎でした。
 国=厚生省(現・厚生労働省)側は、この被爆者(広島で被爆)の被爆距離が1.8キロだったので、「肝機能障害を起こす被曝線量ではない」といい続けました。
 弁護団は、被爆者が被爆時にうけた放射線量は、実験場で得た線量では計り知ることのできないものであり、原告の被爆者がウイルスによって肝機能障害を起こす状況がなかったことなどをあげて、「原爆放射線が原因としか考えようがないではないか」といってきました。
 これにたいし京都地裁は、「原爆の放射線被曝以外の原因によるとの可能性より、原爆の放射線被曝による可能性が最も高いのだから」「原爆の傷害作用に起因する」と認定すべきであると結論したのです。

立ち上がった東京の被爆者

原爆症認定 東京ではわずか1.2%(2003年3月当時)だけ

 東京に住む被爆者のうち、原爆症と認定されている「認定被爆者」は、2003年3月末現在で、全体8,887人中たった105人、全体のわずか1.2%です。
 高齢化の進行の中で、「ガンが発見されて認定申請をしたい」と希望する被爆者が増えています。しかし、厚生省が「DS86」と「しきい値」に固執しているため、「距離が2キロ以上だから」「私は入市だから」と申請する前にあきらめてしまう被爆者が多く、申請しても、被爆距離が遠いというだけで却下される場合がほとんどです。
 青梅市の80歳代の被爆者は、あずまさんと同じ時期に申請を却下されたので異議申し立てを出しました。しかし、6年以上も放置されています。
 厚生省の判定が遅いために、認定されたときにはすでに亡くなっていたという事例も増えています。

あずまさんとともに」と現在で900個人・団体が入会

 これらの実態を明らかにして、「人間を半世紀過ぎても苦しめ続ける核兵器は、一日も早くなくせ」、「国=厚生省(現・厚生労働省)の冷酷きわまる被爆者行政をただせ」の世論を都民に広げようと、東友会は2000年3月15日に「原爆裁判の勝利をめざす決起集会」を開きました。集会には200人が参加し、「原爆裁判の勝利をめざす東京の会」をつくることをきめました。そして、2000年5月18日、「東京の会」(のちに「東京おりづるネット」の名称に)が発足しました。
 あずまさんが、病身をおして裁判に立ち上がったことに、被爆者はたいへん勇気づけられています。会発足から2カ月の間に331人もの東京や首都圏の被爆者が「東京の会」(東京おりづるネット)に入会しています。核兵器廃絶を願い、被爆者支援している人びと、団体が、原爆後障害に苦しみながらもたたかう被爆者のいまの姿を知って、「東京の会」(東京おりづるネット)に入会しています。