被爆者相談所および法人事務所
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あずま数男かずお原爆裁判
最終弁論 安原幸彦弁護士の意見陳述

 原告代理人安原です。私は、最終準備書面22頁以下に記載した「第2原告の被爆状況」の要旨を陳述します。

 原告は、当時16歳で、爆心地から北に1.3キロの三菱重工長崎兵器製作所大橋工場(現在の長崎大学)で被爆しました。
 その時原告は、工場内の長椅子に腰掛けて、同僚と話をしていました。原告は開いていた窓を背にし、上半身は裸で肩からてぬぐいを掛けていただけでした。原告の背は爆心地方向に向いていました。
 午前11時2分の爆発の瞬間について、原告は青い光を見たことしか記憶していません。気がついた時には瓦礫の下でした。幸い瓦礫から這い出ることができた原告は、すっかり倒壊し跡形もなくつぶれていた工場を目の当たりにすることになりました。
 被爆後の大橋工場の惨状は、様々な記録に生々しく残されています。工場近くで塹壕堀に従事していた山口仙二(やまぐち・せんじ)は、「ついさっきまで丈夫な鉄骨で作られていた建物は無残にも崩れ落ち、壁も屋根も何もかも無くなっており、飴のように曲がりくねった鉄骨がわずかに残された状態になっていました。」と述べています。長崎市原爆戦災誌には、「工場内は、助けを求める悲鳴、友を捜す絶叫、火炎のはじける音が交錯し、幽鬼のように突っ立つ負傷者、鮮血にまみれて逃げまどう者、狂気した女子挺身隊員―噴煙渦巻くなかに凄惨な修羅場を展開した」とあります。

 気がつくと原告はからだの背面に重傷を負っており、背中一面にガラスによる傷があり、左耳たぶが切れて、左腕は肘から下にひどい火傷をしていました。
 その後原告は、下級生と連れだって裏門から出て、約300メートルほど離れた山林まで避難しました。のどが乾いたので、浦上川の支流まで出て水を相当たくさん飲みました。川辺には水を求めて来たものの力尽きた死体が山のようになっていました。
 その後原告は長崎本線の線路まで歩いていき、照円寺付近と思われる地点で夜遅くまで救援列車の到着を待ちました。
 原告は大村海軍病院へ収容されました。入院中の8月中旬頃から9月初旬にかけては、40度を超す発熱が一週間も続き、髪の毛が抜け、血性の下痢や嘔吐のため食事がとれませんでした。9月下旬になって、ようやく症状が落ち着いたので退院しましたが、その後2年ほどは、だるい・食欲がないなど体の不調が続き、働きにも出られませんでした。被爆以前は至って健康であった原告は、被爆後は体調も悪く、ついに本件疾患に罹患するに至ったのです。

 次に原告に現れた放射線急性症状について述べます。この点については、放射線影響研究所に保管されている原告の被爆記録が証拠として出されています。1945年10月の日米合同調査に始まるこの記録は、専門家による詳細な記録であり、発熱、脱毛、血性の下痢や嘔吐、血液異常など原告に現れた急性症状が詳しく記載されています。また、被爆後、火傷やガラス片による傷の治りが悪いことや、2年にわたるだるい・食欲がないなどの体調不良も記載されています。
 原告の急性症状を概観すると、まず、急性放射線障害の典型である血性の下痢と脱毛が医師の診断という客観的な証拠をもって明確になっていることが指摘できます。これらは、放射線障害の重篤性の指標となるものです。
 次に指摘できるのが、発熱、下痢、嘔吐、出血など複数の症状を呈していることです。これらの症状は死亡例に見られる急性放射線症状の上位を占めるものです。ちなみに、原告の被爆距離1.3キロの属する長崎1.0キロ~1.5キロでは、死亡率51.5%、即ち2人に1人以上が以上が死亡したとされています。
 血液所見も、原告の骨髄障害の重篤性を物語っています。
 被爆2ヶ月後の10月8日に原告を診察した日米合同調査委員会の柏戸(かしわど)医師は原告の第一次傷としてradiation(放射線)、原爆による障害としてRadiation Sickness(放射線症)と診断しています。

 以上のとおり、原告については、
 第1に、爆心地から1.3キロという近距離で被爆し、火傷やガラスによる傷などの重傷を負っていること。
 第2に、屋内被爆とはいえ、開いた窓の近くに裸でいたのであって、直爆と同視できる状況で被爆していること。
 第3に、被爆後、その周辺をさまよっており、放射線に汚染された粉塵や川の水を大量に摂取していること。
 第4に、被爆直後から、発熱・血性の下痢・脱毛など典型的な放射線による急性症状を呈しており、その症状も重症であること。
が指摘できます。これらの事実からすれぱ、原告は、原子爆弾の放射線を死に至るほど大量に浴び、その影響を強く受けたことが容易に認められます。
 なお、被告は、相も変わらずDS86に基づいて原告の被曝線量を算出し、これにしきい値を機械的に当てはめて肝機能障害を発生させるに足りないと主張しています。また、急性症状については、放射線による人体影響は個人差が大きく、急性症状の内容程度からは放射線量の多寡を判断することはできない、とも主張しています。これらの主張は、実は先の松谷訴訟においてもされたものですが、最高裁判決によって明確に否定されました。最高裁判決が、DS86としきい値の機械的適用を排斥したこと、放射線の影響について急性症状を極めて重く見たことは明らかです。被爆状況と急性症状は、当該被爆者が放射線の影響を強く受けたことを示す何より重要な証拠なのです。本訴訟においてもかような立場から事実認定がされるべきであることを改めて強調しておきます。