集団健診の歴史と意義 大友会健診30年にみる被爆者の健康と医療
大田区での被爆者集団健診「大友会健診」が30年間続いています。この健診が始まったのは、当時の東友会事務局長・田川時彦さん(故人)の発案。企画から当日の進行も東友会が全面協力しました。この健診と被爆者医療の重要性について向山新医師に寄稿をお願いしました。
1984年4月29日、大田区に「大友会」が再建されました。しかし、一年過ぎても、当時は500人もいた大田の被爆者の中で、集まる人は10人から20人。そのとき大友会がとりくんだのが、被爆者の一番の悩み「健康問題」の課題でした。
85年5月、被爆者の要望にこたえて集団健診のため大田病院と大友会の話し合いがはじまりました。その打ち合わせの場に、医大を卒業したばかりの向山新医師がいました。さらに、ベテランの保健婦と事務職員も参加。病院側の体制はバッチリでした。
被爆者全員にお知らせをする郵送料にも困っていた大友会に、大田原水協から500人分の切手と返信用の葉書代が寄付されました。
そして打ち合わせを重ねて、1985年6月16日、第1回「大友会健診」がおこなわれました。
第1回の健診には、39人の被爆者が参加。大友会の役員は会員のお世話をするため、自分の健診を事前にすませ、笑顔いっぱいで出迎え、大田病院の職員はテキパキと身体測定、採血、血圧、レントゲン……と被爆者を案内します。
健康診断が終わった被爆者は会議室に案内され、大友会が用意した弁当を食べながら全員が検査を終えるのを待ちます。その場は広島弁、長崎弁が飛び交う交流の場になりました。懇親会では、向山医師が、健康診断で何がわかるのかについて講演しました。
しばらくして、男性が静かに立ち上がりました。向山医師と病院の職員、大友会の役員に深々と頭を下げました。
そして一言。「ありがとうございます。きょうは心の中まで診てもらいました」。
放射線の後障害の不安を一人で抱え込んで生きてきた被爆者が、被爆者の仲間を知り、信頼できる医師や病院をみつけた瞬間でした。
被爆者の健康管理手当の受給率は、集団健診開始から5年間で16%も上がりました。その後も大友会健診は、30年間、毎年6月と11月の第3日曜日に開かれています。
被爆者医療の根本を忘れないために
医師 向山新
大友会健診30年を記念して何かしたいと思ったものの、まわりを見ると30年前の事情を知っている人が、ほとんどいないことに気づきました。私自身も立川相互病院に移ってしまい、大森中診療所へは週1回の外来と、健診の時にしか来なくなっています。
このままでは、なぜ大田病院で大友会健診を始め、30年間続けてきたのかが忘れ去られてしまうのではと心配になり、何らかの形でこの歴史をまとめてみようと、資料整理を思い立ちました。
その当時を知っている大田病院の関係者数人に声をかけ、資料探しを始めましたが、健診データを含めてまとまった資料はなかなか見つかりません。あきらめずに探していると、当時の資料や原稿がぽつぽつと出てきました。大友会や東友会の記念誌などには、その当時の写真が残っていました。並行して、園田久子先生や東友会にお願いし、代々木病院をはじめ他の病院での被爆者健診の歴史も少しずつ集めました。
全日本民医連の「被ばく問題交流集会」では、大田病院での被爆者健診30年のふり返りと、東京民医連の被爆者医療の歴史について、発表することができました。
いま、大森中診療所の若い職員に声をかけて、当時を知っている職員や大友会の役員の方がたからお話を聞き取り、院内での発表をしてもらおうと考えています。
被爆者の医療は、がん年齢を迎えた若年被爆の方や、被爆二世の健康問題などを含めて、やらなければいけないことがたくさんあります。大友会と大田病院が協力して始め、いまも続く大友会健診の歴史と意義を、若い人たちにきちんと伝え、その志を引き継いでもらい、この先の被爆者医療に役に立てられるようにしたいと思います。