被爆者相談所および法人事務所
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【連載】 現場から見る東友会相談所の40年
相談員 村田未知子

第8回 東友会の被爆者援護法制定運動

 「現場から見る東友会相談所の40年」は、相談現場から見た視点で綴った記事として本紙440号(2021年6月号)から連載され、読者からも好評です。少しでも多くの事例を紹介するため、本号では紙幅を拡大してお届けします。

 1985年から1994年の10年間、東京の被爆者は、文字通り「首都の被爆者」の使命を背負って、壮大な運動を展開しました。1987年11月に当時の厚生省のあった一角を人と折り鶴で包囲した「折り鶴人間の輪」行動には、東京の被爆者と家族400人以上が参加。国家補償の被爆者援護法制定を求める自治体の意見書採択は、台東区を除く都内全ての都区市町村が採択。東京都生協連や東京原水協の支援で100万人分を超える国会請願署名を集めました。
 東京選出の国会議員から国家補償の被爆者援護法への賛同署名を獲得するために、毎月、国会議員会館に集まり、一人ひとりの議員に「じっくり懇談会」を申し入れ、その後も議員の執務室を訪ね続け、ついに3分の2以上の議員から署名を集めました。

孤独な被爆者の死に対応して

 そんな大運動の傍らに深刻な相談が続いていました。横川嘉範事務局長(当時)と私は、新しい年1992年を、代々木病院の霊安室で迎えました。大晦日の未明に亡くなった練馬区のK男さんの遺体の引き取り手がなかったからです。前年の4月に突然「助けてほしい」という電話。訪問すると、財布には500円しか入っていません。生活保護の申請、入院の手配をすすめていると翌月、150万円借金があると話してくれました。亡くなった後で調べると11のサラ金からの借金が400万円近くありました。
 K男さんの知人や親類と何度も連絡を取りましたが拒否されました。秋になって、弁護士に相談し、相続放棄の申請を東友会が手伝うことにして、ようやく遺骨を引き取ってもらう約束をとりつけました。K男さんを火葬した1月4日、広島から甥が上京したときには、横川さんと2人で、胸をなで下ろしました。妻を捨て、東京オリンピックの年に上京し、荒れた生活を送ってきた被爆者の最期でした。

ハチ公前広場の一角で宣伝行動する被爆者たちと、署名をしているらしい人が写っている。被爆者はたすきを掛け、チラシを配ったり、なにかのパネルを掲げたりしている。机のようなものが置いてあるが、太ももあたりまでの高さしかなく、署名をしている制服姿の高校生か中学生はかがみこむような姿勢になっている。
1995年、渋谷駅頭で署名を訴える横川事務局長(右)。病身ながらどんな活動でも真摯に取り組んだ人だった。

広島に遺骨を届けて

 1994年11月23日、被爆者援護法制定をめぐる激しい動きのさなか、私は新幹線で広島に向かいました。練馬区のH男さんの遺骨を甥に届けるためでした。H男さんは私が東友会に勤めたときから12年間、よく連絡してきた独り暮らしの被爆者。家族を見捨てて東京に出てきたこと、息子に申し訳ないと長年かけて貯めた500万円を贈りたいと連絡して断られたことなどを話してくれました。その後、東友会の紹介で遺言書を書き、弁護士に執行を依頼していました。
 80歳代になって、お墓が心配になり、東友会にたびたび電話をかけてきました。そのH男さんが、兄の墓に入れてもらえると嬉しそうに報告してきたのは3年前でした。
 7月、H男さんが亡くなりました。広島の甥の回答は、「遺骨を届けてくれるなら家の墓に入れる」とのこと。休日を使って、私が遺骨を届けることにしたのです。新幹線を降りると、広島は氷雨が降っていました。タクシーで甥の店に向かいました。店に入ると、甥が表情も変えずに、店の隅にあった空になったバナナの段ボール箱を指さし、「あの箱に」と言ったのです。しかも、その箱は土間の上にじかに置いてありました。前の晩、わが家の仏壇の脇に遺骨を置き線香をともしていたら、私の母が「苦労した方だったのでしょう」とお茶をいれ、朝はご飯やみそ汁を献げてくれたのに……。「H男さん、ごめんね」。そう思いながら遺骨を置きました。翌日の葬儀でも遺骨はダンボール箱の中にありました。
 山本英典副会長(当時)が、被爆者の共同墓地「原爆被害者の墓」を2005年に高尾の東京霊園内に建てましたが、そのきっかけの一つがこの相談事例だったとことを後から知りました。

ダンボール箱に入れられたままの遺骨

原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律が成立

 1994年12月、全国の被爆者と市民の運動のなかで、ついに被爆者援護法が成立しましたが、国家補償の法ではありませんでした。しかし、原爆死没者が初めて法の中に位置づけられ、諸手当の所得制限が撤廃されるという大きな前進がありました。
 東友会は「被爆者援護法制定を求める運動は一応の決着を見ました」(伊東壯会長の「報告とお礼」1995年1月)とし、制度を徹底活用して問題点を明らかにし、国家補償の法への改正を求める運動を進めることにしました。私たち相談員の出番がきたのです。