【連載】 現場から見る東友会相談所の40年
相談員 村田未知子
第6回 忘れられない被爆者のことば
「原爆被害者の基本要求」という確かな基盤を持った被爆者援護法制定運動は、数十年間の被爆者の願いを集大成したたたかいでした。運動は、「被爆45年運動」「50年運動」と続きました。被爆者運動は国民には1000万人を目標とした国会請願署名への協力を、自治体には、過半数を目標に被爆者援護法促進決議・意見書採択を、国会議員には、被爆者援護法制定賛同署名を3分の2を目標に訴えつづけました。
東友会の相談事業のなかで、新しく被爆者手帳が交付されたり、健康管理手当を受けた被爆者が、この運動に参加してきました。ここでも私たち相談員は被爆者に育てられました。
自治体に被爆者援護法制定の意見書の採択を求める運動は、墨田区を除く島嶼も含めた都内のすべての区市町村に広がりました。しかし、東京都議会に出した請願は審議されません。「それなら、国会と同じだ。都議会議員全員の賛同署名を集めよう」と東友会は運動を開始しました。1991年11月から、当時の横川嘉範事務局長(広島被爆)と畠岡義人請願部長(広島被爆)を中心に日々都議会に通い続けました。
当時の都議会自民党の幹事長、のちに国会議員になった著名な下町選出の都議会議員に面会したときのことでした。山根ミサヲさん(広島被爆)が突然に、小さな写真を出して話し始めました。坊主頭の学生服を着た少年の写真でした。
「先生。息子です。14歳のとき、原爆で大火傷をして、膿と下痢にまみれて20日間、高熱と火傷にわいたウジに苦しめられて、死にました。
食べたいさかりに、食べる物もなく、勉強したくても勉強もできず、お国の命令で火事を食い止めるための建物疎開をさせられて、死にました。でも、お国はなんにもしてくれません。
私は、お金がほしいのではありません。国が、きちんと息子に償いをしてほしいだけなんです」。
話を聞いていた都議会議員が涙ぐんだように見えました。同席していた被爆者も泣いていました。議員は山根さんの手を握って「わかりました」とペンを取り、署名しました。「日本人ならわかってくれる」、畠岡さんは大声でこの成果を報告しました。
このような努力を積み上げ1992年4月、東友会は当時126人の都議会議員全員から「国家補償の被爆者援護法制定」への賛同署名を集め、11カ月後の1993年3月、ついに都議会の意見書採択を勝ち取りました。