【連載】被爆者が国に問うこと 山本英典顧問に聞く
原爆被害への償い、くり返さない証しを求める運動
被爆者は、1956年の日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)結成以来、再び核戦争を起こさせない証しとして、「原爆被害への国家補償」と「核兵器の廃絶」を求めて運動してきました。しかし、広島・長崎への原爆投下から74年を迎えようとする2019年現在も、日本政府による国家補償も、核兵器の廃絶も実現していません。
新連載は、被爆者の運動の歴史と重点を振り返ります。被爆50年(1995年)に向けて「国家補償の被爆者援護法」を求めて運動をひろげた東友会と日本被団協の活動と被爆者の思いや姿を、当時日本被団協と東友会の事務局次長として活躍していた山本英典顧問に紹介していただきます。
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被爆者運動の盛り上がりと「受忍論」
1970年代、被爆者の運動、最高裁の判断などを背景に、厚生大臣は「原爆被爆者対策基本問題懇談会」を発足。 -
原爆被害の真実を広く深く国民に
1981年、日本被団協は「受忍論」を打ち破るため、署名推進と国民法廷運動を提起。学者や弁護士の協力も得て広がります。 -
国民法廷運動と被爆者・遺族調査
政府の原爆被害「受忍論」を裁く国民法廷が1981年都内で16回開廷。東友会は被爆者と遺族の実態調査を開始。 -
『原爆被害者の基本要求』の発表
1982年、国連で山口仙二さんが自身のケロイドの写真を掲げ核廃絶を訴え。被団協は『原爆被害者の基本要求』。 -
被爆40年都民運動と全国行脚
『原爆被害者の基本要求』を広げようと、東友会は署名を都民に広げ、首長・議長全員の賛同署名を得ようと奮闘。 -
日本被団協の原爆被害者調査
1985年、政府は原爆死没者調査を含めた調査を実施も対象者も内容も不十分。日本被団協は独自調査を開始。 -
援護法賛同国会議員が過半数突破
1980年代、国家補償の被爆者援護法を求める世論が強まり、与党自民党は自治体の促進決議を妨害。 -
野党共同提案の被爆者援護法が可決
1989年、消費税導入とリクルート事件をきっかけに参議院では与野党が逆転、被爆者援護法案が可決されるも… -
援護法制定へ、学び行動した東友会
1991年から、東友会は連続講座で学び国会議員要請に参加。意見書採択を拒む都議会に対し、都議に賛同呼びかけ。 -
原爆死没者一人ひとりを見すえて
1990年5月、厚生省が発表した死没者調査の結果は数字のみ。東友会は原爆死没者名簿を刊行。 -
「じっくり懇談」で国会議員に要請
1994年、要請を重ね、東京選出の国会議員は9割が国家補償の被爆者援護法に賛同。 -
国家補償の意味をすり替えた与党
1994年、被爆者とともに「国家補償の被爆者援護法を」と要求し続けてきた社会党の委員長が首相に。 -
最終回 援護法成立後の運動を意識して
ともに運動してきた政党の党首が首相となっても悲願は否定され、「裏切られた」という声が。