【連載】被爆者が国に問うこと 山本英典顧問に聞く
第12回 国家補償の意味をすり替えた与党
被爆50年を前に国政も大きく動いていました。1994年6月に、当時の社会党・村山富市委員長を首相とする、社会、自民、さきがけの3党による連立政権が誕生。「被爆者援護法に関するプロジェクト」が3代の内閣で引き継がれていました。
これまで一貫して、被爆者とともに「国家補償の被爆者援護法を」と要求し続けてきた社会党の委員長が首相になり、被爆者も支援者も大きな期待を寄せていました。
しかし村山内閣は、3党が合意したはずの従来のプロジェクトを「戦後50年問題プロジェクト」に改組。8月の広島市・長崎市の平和記念式典に出席した首相は、国家補償にはいっさい触れず、核兵器使用が国際法違反とも言わず、その月末には、これまで2度参院で可決された国家補償の「被爆者援護法案」の内容ではなく、当時の「原爆医療法」と「特別措置法」を一本化する方向で動き出したのでした。
このとき私(山本)は日本被団協の事務局次長として、齋藤義雄事務局長(故人)と嶋岡靜男国会対策委員長(故人)とともに、たびたび与党プロジェクトの役員と面談して、「国家補償の被爆者援護法を」と交渉しました。
1994年10月末にかけて与党プロジェクトの作業が進み、「援護法の前文に“国家補償”の言葉が入るそうだ」などの情報が飛びました。しかし11月3日の新聞報道で、「国家補償」が「国の責任」という言葉にすり替えられたことがわかりました。
「裏切られた。かあちゃんは犬死にか」東友会事務所に入った永坂昭さん(東村山)からの電話の第一声でした。母の遺体を捜して、長崎の爆心地付近にあった自宅周辺で、母の金歯を目印に数多くの頭蓋骨を持ち上げて捜索した永坂さんは、当時16歳の少年。戦後、人工透析を続けながらも長く東友会事務局次長を務め、国会や厚生省への要請を続けていた永坂さん。病身にもかからわず明るく周囲の被爆者をリードし続けていた永坂さんは、この4日後に66歳で急死しました。「永坂さんが憤死した」、「弔い合戦だ」。東友会の人びとはその翌日11月8日からの全国行動に参加。支援者も含めて3日間で1800人、その4分の1にあたる460人が東友会の被爆者と東京の支援者でした。
「原爆被害への国家補償は被爆者と遺族だけの要求ではない。原爆被害を国の責任で償わせることと、被爆国の政府として国際社会で核兵器廃絶の推進者になることは、表裏一体、不可分の関係だ」長い運動のなかで、活動に参加する東友会の人びとは誰でも、この訴えを伝えられるように学んでいきました。