【連載】被爆者が国に問うこと 山本英典顧問に聞く
最終回 援護法成立後の運動を意識して
1994年10月、自民・社会・さきがけの村山連立内閣は、自民党の強い意向を受けて、「国家補償」を「国の責任」という言葉に置き換えることで一致。11月22日には法案を閣議決定しました。
法案に対し、衆院厚生委員会で審議が始まり、11月29日には伊東壯東友会会長(日本被団協代表委員、故人)と田川時彦東友会副会長(故人)が参考人として政府案への意見陳述をおこないました。
伊東氏は、諸手当の所得制限の撤廃については評価しつつも、特別葬祭給付金については原爆死没者への葬式代を生存被爆者である遺族だけに出すことは整合性がないと批判。法案の前文にある「核兵器の究極的廃絶」についても、遠い将来ではなく今すぐ廃絶に取り組むことが被爆者の願いだと訴え、国が開始した戦争によって「非人道な死」を強いられた原爆被害者に国家が償いの意思を示し、原爆被害をくり返さない決意を表明することの重要性を強く主張しました。
田川氏は、東友会の相談事例から、子どもが病死したのは被爆のせいだと夫から暴力を受け続けた女性の事例などを紹介。あの日、あの時だけではなく戦後も原爆被害は続いていることを国は意識してほしいと訴えました。
翌30日には広島・長崎で地方公聴会も開かれ、それぞれ被爆者代表が訴えましたが、政府案は可決され、参議院に送られました。
参院厚生委員会でも12月7日に公聴会が開かれ、東友会の横川嘉範事務局長(故人)と、日本被団協の岩佐幹三専門委員、池田眞規弁護士(故人)が参考人として陳述。横川氏は、被爆者が「からだ」「こころ」「くらし」の全面に受けた苦悩を東友会の相談事例から紹介。自身の悪性リンパ腫との長い闘病についてもふれ、こうした苦悩の元である原爆投下をまねいた国家が、償いの姿勢を示すべきだと強調しました。
しかし、「国家補償の原爆被害者援護を」という被爆者の悲願は、これまでともに運動してきた政党の党首を首相とした内閣でも否定され、1994年12月9日に政府案は成立。被爆50年となる翌1995年7月1日から施行されました。
参議院で二度可決された国家補償の援護法案の実現を求めてきた被爆者からは、「あれは援護法ではない」「裏切られた」という声が沸き上がりました。
当時、被爆者や支援団体のなかでも、被爆者援護法の評価は大きく揺らいでいましたが、法律の問題点と、運動の到達や前進面、その両方を見据えて語った伊東会長の言葉が印象に残っています。
伊東会長は、1969(昭和44)年までに亡くなった原爆死没者の70%に対して「国が初めて措置を講じた」ことや手当の所得制限が撤廃されたことを評価しつつ、次のように訴えました。
「これだけの法律をつくるにも、ほんとうに長い年月がかかりました。(中略)でも国が戦争への責任を認めて、死んだ人に申し訳ないと謝るとか、手当をやめ年金にするとかにはなっていません。
そうした施策をちゃんとやらせるためには、この法律をどうしても国家補償にたった援護法にしていかなくてはなりません。私たちはせっかく勝ち取った成果は成果として十分活用するとともに、国が戦争の責任をとって謝るべきは謝り、その反省を土台にして、ふたたび被爆者をつくらぬ、戦争をやらぬ決意を示させる運動を続けなくてはならないのです」(1995年6月25日付『東友』)
1994年12月に成立した被爆者援護法 | 1989年と1992年に参院で可決された法案 | |
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法の理念 | 既存の「医療法」と「特別措置法」の1本化。 「国家補償」の理念は盛り込まず。 |
原爆被害に対する国の償いを明記し、再び被爆者をつくらない決意を表明。 |
死没者への弔意 | 原爆投下時までさかのぼって死没者の遺族への「特別葬祭給付金」支給。 ただし、遺族も被爆者であることが前提。 |
原爆投下時までさかのぼって死没者の遺族への「特別給付金」支給。 遺族が被爆者か否かは問わない。 |
被爆者の諸手当 | 基本的な枠組みは従来どおり。所得制限の撤廃、高齢化対策などで前進面。 | 健康管理手当などは統合して年金化。手当支給の基準等の緩和。 |
おわりに
2019年6月号から13回にわたり、被爆者援護法制定にむけた東友会の運動と被爆者の姿を、入退院をくり返すなかでの最後の仕事と思い、語らせてもらいました。毎月、運動に参加していた一人でも多くの被爆者の姿を伝えたいと努めましたが、一部の人たちしか紹介できなかったのは心残りです。
今回の連載が、核兵器廃絶と原爆被害への国家補償を求める被爆者運動の資料となり、私たちの運動を引き継いでくださる若手被爆者と支援のみなさんの参考になることを願い、私の長い語りを終わりにします。
最後に、私の語りを毎月、資料とつきあわせて原稿にまとめてくれた村田未知子事務局員に感謝します。