【連載】被爆者が国に問うこと 山本英典顧問に聞く
第8回 野党共同提案の被爆者援護法が可決
東友会の伊東壯会長は、1989年1月の「東友」で「一見無力に見える運動も実は岩をも動かす力を持っていることを東友会の歴史が教えている」と呼びかけました。3カ月前に、東友会が結成30周年事業の一環として刊行した記念誌『沈黙から行動へ―東京のヒバクシャ30年の歩み』で、都内31区市の被爆者の会の結成以降の活動を紹介したことを受けたものでした。
国家補償の被爆者援護法制定運動の広がりとともに被爆者関連の報道が増え、東友会が受けた相談は、ついに年間6000件を超えてきました。「家賃を引くと月2万6000円で生活している。でも生活保護は受けたくない。原爆のせいで身内を亡くし働けなくなったのだから」と、相談事業のなかで地区の会と結びついた五反田シゲさん(大田区)も、小柄な身体で毎月国会に通い続けました。
相談事業と結びついた組織活動で都内の被爆者地区の会は38に増え、近隣の会と支え合いながら、区や市に援護法促進決議の採択を求めました。
しかし自民党は1989年4月、2度目の国会議員の賛同署名を妨害する通達を出しました。なかには通達を受けて「賛同署名を撤回する」という議員も現れました。地元の被爆者の要請を受けて賛同署名をした参院議員に、委員会で反対意見を述べさせるという手段をとるようにもなりました。
37万人を超えた被爆者手帳所持者の減少が1983年から始まり、1989年には平均年齢は63歳になっていました。
日本被団協は、一橋大学の濱谷正晴教授などの支援をうけて原爆死没者調査の報告集を次つぎに刊行。原爆被害の実態を明らかにしてきました。齊藤義雄事務局長も、肝臓がんに冒された身体をおして毎月の国会請願行動で「国家補償」の重要性を訴え続け、東友会のほとんどの集会にも参加して激励を続けました。
「やられても、やられても、やるっきゃない」。福原節子さん(大田区)は、涙ながらに議員室を訪ねました。「デパートの屋上で餡パンをかじりながら、いっそ飛び降りた方が楽だと何度思ったか。母と娘がいたから生きてこられた」。このときはじめて福原さんから、原爆で夫を失い、娘を育て上げた辛さを聞きました。
1989年の消費税導入とリクルート事件に怒りを持った多くの国民が7月の参議院選挙で野党を支持し、参議院では与野党が逆転するという国政の大事件がおこりました。「この機運をのがすな」と日本被団協は野党6党に国家補償の被爆者援護法案の共同提案を要請。11月の日本被団協中央行動に合わせて参議院に被爆者援護法案が提出され、12月に賛成多数で可決されました。可決の瞬間、議場は万歳の声が、傍聴席からは大きな拍手が沸き上がり、涙する被爆者の姿が目立ちました。このとき、当時の海部俊樹首相をはじめ7人の閣僚が、国家補償の被爆者援護法への賛同署名をしていたことを野党が明らかにし、話題になりました。しかし、衆議院に送られた法案は、会期切れのため廃案になりました。
この間の運動で、健康診断へのがん検診の追加、健康管理手当などの増額、支給期限の延長、所得制限の拡大などが毎年続きました。
国会議員の賛同署名は、選挙で改選となった議員にもすぐに呼びかけられ、選挙後過半数を回復していました。被爆45年にあたる1990年年頭には、広島・長崎両市長と後にノーベル賞作家となった大江健三郎さんなど52人がよびかけた「被爆者援護法実現・みんなのネットワーク」が発足。中央行動、請願大会などを経て243万人分の署名が提出され、1991年3月には地方議会の意見書採択が過半数を超えました。
そして5月に再び野党6会派が参議院に被爆者援護法案を提出。翌1992年4月には憲政史上初めてという参議院での同一法案2度可決が実現しました。しかし翌年6月、この法案も衆議院の会期末をもって廃案にされました。