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【連載】被爆者が国に問うこと 山本英典顧問に聞く

第9回 援護法制定へ、学び行動した東友会

 1990年1月、広島で発足した「被爆者援護法実現みんなのネットワーク」を中心に「被爆50周年に被爆者援護法の実現を」をスローガンにした運動が、全国津々浦々で大きく盛り上がっていきました。
 「学んで行動し、行動して学ぶ」をスローガンとしてきた東友会は、運動を基礎から支えようと「ヒロシマ・ナガサキから何を学ぶか――被爆45周年連続講座」を翌1991年に企画。田川時彦事務局長と事務局次長の三宅信雄、横川嘉範両氏と私、村田未知子事務局員5人が担当しました。
 講座は2月から7月まで6回。毎月50人程が参加しました。講座のテーマは、(1)被爆者援護法制定の意義は何か、(2)原爆はなぜ投下されたか、(3)原爆は人間をどのように殺したか、(4)占領軍・日本政府は何をしたか、(5)被爆者・国民は何をしたか、(6)核兵器に対してわたしたちは何をすべきか。講師は、日本被団協役員、大学教授、弁護士など多彩。さらに前回の講演内容と資料を『東友文庫』と名付けたA5判80ページ程度の小冊子にして、次回の講座の日に発行するという、早業もおこないました。
 東友会はこれらの講座でみんなが学習して認識を高めながら、ほぼ毎月開かれた日本被団協の国会議員への要請行動にも数十人が参加。100万を目標とした請願署名の60%を達成し、衆参両院議員の賛同署名は50人中45人、自治体の意見書採択は当時の都と区市町村65自治体のうち45議会で獲得していました。
 しかし、東京都議会は、意見書採択を拒み続けました。そんなとき、畠岡義人請願部長(葛飾)に足立区の渡辺康信都議が、「国会議員に頼んでいる賛同署名を都議からも集めたら」と。「よしっ」。行動力では若者にも負けないと自負する請願部は1991年11月から行動開始。部長を先頭に、副部長の山根ミサヲ氏(新宿)、田代啓子氏(昭島)、平野合歡之助氏(江東)が中心になって毎日、都議会5階の議員団控室を訪ねました。このとき、「山根さんが被爆直後に大火傷をした14歳の一人息子を亡くした話をしたら、木村勉都議が、目を潤ませながら署名してくれた」という話が届きました。なかには逃げ回る都議をトイレまで追いかけた猛者もいて、翌年4月ついに126人全員の署名を獲得。都議会の意見書採択への道を開きました。
 東友会のこれらの行動を支え続けたのは、新聞の発行でした。担当は村田事務局員。1989年6月から1994年12月の被爆者援護法可決まで、B4判2ページの「東京運動推進ニュース」を1~2カ月に1回発行し、毎年11月頃に数日間取り組まれる全国大行動のときは、事務所付近に数人の役員とともに泊まり込んで、毎日「速報」を発行しました。

「地方分権確立推進本部」の札のかかった部屋の前に集まり、都議を取り囲む被爆者たち
1991年からは、チームを作って連日のように各会派の都議会議員を訪問し、被爆者援護法の賛同署名を訴えました。