被爆者相談所および法人事務所
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【連載】被爆者が国に問うこと 山本英典顧問に聞く

第4回 『原爆被害者の基本要求』の発表

 1982年6月に国連軍縮特別総会(SSD II)が開かれ、日本被団協の山口仙二代表委員が被爆者として初めて国連本会議場に立ち、自身のケロイドの写真を掲げながら核兵器廃絶を高らかに訴え、会場を深い感動の渦に巻き込みました。その後、国際的にも日本国内でも核兵器廃絶を求める世論が高揚していきました。
 国会でも日本被団協の要求に応えた野党5会派(当時の社会、公明、民社、共産、新自連)が翌1983年3月に国家補償として原爆死没者への給付金100万円を盛り込んだ被爆者援護法案を衆議院社会労働委員会に提出。5月に全会派一致で継続審議となりました。
 これらの動きのなかで日本被団協は6月、これまでの「原爆被害者援護法案のための要求骨子」の再検討を始め、責任者に伊東壯東友会会長(日本被団協代表委員)が就任。1982年に開始した原爆死没者・遺族調査と並行して1983年からは被爆者要求調査を全国によびかけ、これらの調査結果から国家補償の法を求める新しい要求の策定をすすめました。著名な社会学者であり、日本被団協の専門委員でもあった一橋大学名誉教授・石田忠氏から長年の調査と考察を深めた「原爆死」に関する提言も受けて、被爆者の要求が整理されていきました。
 1983年11月、日本被団協全国代表者会議で、伊東代表委員が、被爆者の団結を深め、国の「受忍」論を打ち破る新しい要求について中間報告をおこない、全国討議が始まりました。
 「息子も私もケガやヤケドの血と膿、糞尿まみれで救護所に放置された。人間の恥じらいを失った地獄の中で14歳の息子は息を引き取った」(新宿区・山根ミサヲさん)など、最愛の家族の死の悲惨な有様や遺族の思いが次つぎに語られ、根源である核兵器廃絶と原爆死没者への償いを含む原爆被害への国家補償を「車の両輪」とした運動こそが、被爆者運動の基本であることが明らかになっていきました。
 全国討議を受けて日本被団協は、吉田一人東友会常任理事(日本被団協事務局次長)がその実務全体を担当し、文案修正作業にあたりました。出された意見は200項目にわたり20数回の修正が続けられました。
 そして1984年11月、「被爆者運動の憲法」といわれる『原爆被害者の基本要求』が発表され、日本被団協全国代表者会議で可決されたのです。
 「原爆被害者」としたのは、死没者・遺族を含めた広い視野で原爆被害を位置づけたからです。
 東友会は、原爆死没者を生存被爆者につなげ、未来の人びとを被爆者にさせないため「基本要求」の学習会を都内各地で開きました。学習会成功のために都内の地区の会の役員は、会員に電話をかけ続けました。このとき聞いた被爆者の願いがまた被爆者の団結を深めていきました。

「原爆被害者の基本要求」パンフレット。資料を追加した新版がいまも普及されています。 (1部200円。東友会にあります。)