【連載】被爆者が国に問うこと 山本英典顧問に聞く
第3回 国民法廷運動と被爆者・遺族調査
「大粒の涙がこぼれて、まわりが暗かったからよかったものの、これまでも幾人かの被爆者の話を聞いてきたが、これほど感動したとはなかった。このような感動を受けることは人生において数少ないであろう」1981年から1983年に都内で16回開かれた政府の原爆被害「受忍(=がまん)論」を裁く国民法廷運動で、被爆者の証言を聞いた人の感想です。
この模擬法廷で語った被爆者のほとんどが、人前で当時のことを話すのは初めてでした。この後、被爆者の証言を聞く活動が核兵器廃絶運動の柱になることが確認され、東友会に被爆証言を聞きたいという依頼が届くようになりました。
被爆から40年近く、あの地獄の体験に苛まれ、差別や偏見を受け、被爆したことを隠しひっそりと生きてきた被爆者が、体験を語ることが「核兵器廃絶への力になる」と知ったとき、証言活動が生きがいになったのです。当時の東友会事務局長・田川時彦さん(故人)が企画して、東友会は法廷の記録を『原爆を裁く』と題して1983年に刊行しました。
当時、三鷹市に住んでいた私は、三鷹市の国民法廷で出島艶子さんが、火傷やガラス片で傷ついた顔をさらし、孫に現れた血液の病気について証言する姿に、目を見張るような驚きと感動を覚えました。
東友会はこの動きとともに相談事業を急速に強化しました。医療機関に勤務していた30歳代になったばかりの村田未知子さんを相談員に迎え、各地で相談会を開きながら、1982年に狛江・狛友会、多摩やまばと会、1983年に江東・江友会、墨田折鶴会、1984年に大田・大友会、昭島しあわせ会、千代田乃会、1985年に町田・町友会、日野・日友会、港・港友会という10区市の被爆者の会の組織化を実現させました。このとりくみで、東友会の基礎が固められ、相談事業から原爆被爆者と家族の生涯にわたる被害の実態を明らかにできるようになりました。
「原爆死の有様について調査をして、実態を明らかにすべきだ」。大学で統計学を教えていた伊東壯東友会会長(当時・日本被団協代表委員、故人)は、被爆者と遺族を対象にした東友会「原爆被爆者・遺族調査」の実施を提案。東友会は1983年7月から調査を開始し、伊東さんが分析した中間報告を1984年7月に発表しました。
この調査費用は、当時の東友会会計・亀井賢伍さんの尽力で、東京都社会福祉資金財団から100万円の助成金を得ることができました。
伊東さんは国勢調査にあわせて政府が実施する被爆者調査の検討委員の一人でした。この東友会の調査が、1985年に国の調査に原爆死没者調査を加える道を開くことになったのです。