原爆症認定集団訴訟20年 原爆被害の真実を認めよ
からだ・こころ・くらしに刻み込まれた原爆被害
過酷ともいえる厳しい状態にあった原爆症認定のあり方にたいし、国・厚生労働省を被告として全国の被爆者が原爆症認定集団訴訟に立ち上がったのは2003年4月。東京ではこの年の5月から提訴を続け、集団訴訟の原告が82人に。その後のノーモア・ヒバクシャ訴訟の東京の原告は32人、ふたつの裁判の全国の原告426人の27%となりました。
裁判の判決では、2013年12月に厚労省が決めた最終改訂の基準で却下された申請を裁判所が認定した事例もありました。さらに、被爆者側の勝訴が7割を超えるという、国を相手取った裁判としては画期的な裁判になりました。しかし厚労省の基準は、2013年以降9年間改訂されず、被爆者の求める内容はもとより各地裁・高裁の司法判断と比較しても、はるかに厳しい姿勢は変わっていません。
原爆症認定集団訴訟の最初の提訴から20年を目前に控えた2022年9月、ふたつの集団訴訟は終結しました。これらを支えた人びとの足跡を残すために、20年をふり返る写真特集を組みました。
原爆症認定集団訴訟の提訴に最初に立ち上がった東京の被爆者は19人。初めての裁判に緊張した面持ちで歩く原告たち。判決を聞くことなく無念の死を遂げた原告もいます。東京第1次訴訟の原告は、いまは全員が亡くなりました(2003年5月27日)。
裁判では、医師や専門家が原爆の影響を証言する「証人尋問」とともに、原告が直接、被爆状況やその後の体調を証言する「原告本人尋問」がすすめられました。
健康状態が思わしくなく裁判所での尋問が難しい原告のため、初めての臨床尋問がおこなわれました。かかりつけの病院が用意したベッドの上で、裁判官や厚労省側の代理人の尋問の前に、被爆当時の傷跡を弁護団に見せて、打ち合わせをすることもありました(2003年10月30日)。
集団訴訟はたくさんの支援者に支えられました。脚本家の早坂暁さんなども応援に駆けつけました(2004年4月12日)。
制度の改定のためには立法、国会議員の理解を得ることが不可欠です。与野党すべての議員に呼びかけた院内集会や法廷の報告集会を、何度も何度も開きました(2008年3月14日)。
各地の裁判所は厚労省の基準で却下された原告を認定する判決を次々に出しつづけました。しかし厚労省は動きません。「もう我慢できない」と厚労省の前で抗議のダイインも(2006年8月9日)。
提訴から約4年。東京第1次訴訟の東京地裁判決は、21人が勝訴、9人が敗訴でした(2007年3月22日)。
東京地裁の判決も出て、世論の力と国会議員の働きかけで、舛添要一厚生労働大臣(当時)が原告と面談。ついに厚労省が重い腰を上げ、動き出しました(2008年1月11日)。
行動は続きます。国会への請願行進では死去した原告の写真を掲げて怒りのアピール(2008年6月4日)。
全国集会でも、死去した原告の写真を抱いて遺族が思いを伝えました(2009年5月28日)。
厚労省前での大規模な座り込みは2008年と2009年の2回。マスコミも注目し、被爆者の願いは大きく広がりました(2009年6月9日)。
2009年の広島原爆投下の日、日本被団協と麻生太郎首相・自民党総裁(当時)が「確認書」に署名。河村建夫官房長官(当時)は「厳しい司法判断を厳粛に受け止め、(中略)被爆者の方々に筆舌に尽くしがたい苦しみや(中略)原告のみなさんの心情に思いを致し、これを陳謝します」との談話を発表しました(2009年8月6日)。
しかし厚労省が審査を中断したため、裁判に参加できなかった被爆者が6人残されました。東友会はこれらの被爆者など原告32人を支えてノーモア・ヒバクシャ訴訟に参加しました(2012年3月27日)。
東京のノーモア訴訟では地裁で敗訴した原告も控訴審(高裁)の判決で勝訴し、31人が勝利(2016年6月29日)。
最後の1人の原告を支え、国会議員に議員会館内の会場をとってもらった院内集会にも参加しました(2016年7月12日)。
画家である被爆者が、法廷が開かれるたびに傍聴席でスケッチ。「東友」に載せ、裁判の様子を広く知らせることもできました。
弁護団は医師団や原告団の代表とともに、休日をまるまる使って、泊まり込みで裁判の進め方を検討しました(2017年1月8日)。
そして2018年12月14日、東京の最後に残った原告も、車椅子で勝訴判決を聞くことができました。東京の原告32人全員が勝訴したのです。このうちの23人は厚労省の基準では認定されなかった原告でした。