被爆70年、NPT再検討会議へ 核兵器廃絶の国際活動
2015年は原爆被爆から70年の節目の年であり、NPT(核不拡散条約)再検討会議が開かれる年でもあります。すでにNPT再検討会議の準備委員会が開かれています。2014年4月28日から5月9日に第3回準備委員会がニューヨークの国連本部で開かれ、日本被団協の代表3人が参加。東友会副会長で日本被団協代表理事である山田玲子さんが、自身の被爆体験と被爆者としての願いを訴えました。山田さんの訴えを聞いた各国政府代表、NGOの参加者たちからは、大きな感動の拍手が送られました。
この流れをさらに
日本被団協は、核兵器廃絶への確かな道筋をつくろうと、6月の総会で「核兵器廃絶へ世界の動きと日本被団協」と題する特別報告と、「NPT再検討会議の成功をめざして」の提案を採択しました。
特別報告では、被爆者が被爆から69年、被爆の実相を語り「ノーモアヒバクシャ」と訴えてきたことが、各国政府を動かし、核兵器使用の危機を何度も乗り越えてきたこと、2012年4月のNPT再検討会議第1回準備会から、核兵器の非人道性の面から核兵器は廃絶させるしかないという声が世界的に大きくなってきたこと、2013年3月のオスロ会議、4月のNPT会議第2回準備会、10月の国連総会第1委員会決議、2014年2月のメキシコ・ジャナリット会議には日本被団協代表が参加して被爆体験を語り、核兵器の非人道性を国際社会に深く印象づけたことが確認されました。
このような実績をふまえ、2015年4月27日から5月22日まで国連で開かれるNPT再検討会議に向けての行動要項を発表しています。
核兵器廃絶の約束を果たして 山田玲子さんの証言と訴え(要旨)
1945年8月6日、私は11歳の時に爆心地から2.5キロの校庭で被爆しました。
雲一つない青空をアメリカの爆撃機B29がUターンしているのを見た瞬間、閃光が走り、一瞬何も見えなくなりました。防空壕に向かって走る私の背中に熱い爆風が吹きつけ地面に転がりました。何が起きたかと皆でひと塊りになっていると、急に雨が降ってきてびしょ濡れになりました。
間もなく学校も町の道路も、燃える中心地から逃げてくる人びとが続き、歩くこともできない状態になりました。衣服も皮膚もぼろぼろに焼かれ、顔も定かでない人や怪我で血みどろの人など、言葉で表すことができないほど酷い様子でした。
我が家は両親と4人姉妹の6人家族でした。母と、軍需工場の動員が休日だった16歳の2番目の姉、学徒動員の作業を病気で休んでいた13歳の3番目の姉は家にいて助かりました。
爆心地から1キロの校舎内で被爆した父は、全身にガラス破片を浴び、血みどろで2人の兵隊に支えられて帰ってきました。爆心地から2キロで被爆した長女は、爆風で吹き飛ばされ、首や背中に火傷を負って2日目の夕方に帰ってきました。
父にも姉にも薬はありません。母は近所からキュウリをもらい薄切りにして姉の背中に貼って冷やしましたが、上半身裸の姉は痛い痛いと泣くばかりでした。
父の体からは、何年たってもガラス破片が皮膚を破って出てきました。20年後、肺がんと白血病で亡くなりました。
私の町に逃げてきた人たちは息絶え、小学校の校庭で焼かれました。2300人余の数の記録が残っているだけで、助けもなく、家族にも会えず、名前すら確かめられず、無念の死でした。
生き残ることができた被爆者は、その人たちの無残な死を忘れることができません。被爆者として受けてきた差別や原爆被害による後遺症の苦しみを乗り越え、「ふたたび被爆者をつくらせてはならない」と、核兵器廃絶の運動を半世紀を超えて続けています。
すべての国が「核兵器のない世界の平和と安全を達成する」との2010年NPT合意を実行し、とくに核兵器保有国が「核兵器の完全廃絶を実現する」との明確な約束を果たすよう求めます。被爆者が生きているうちに核兵器が廃絶されることが、すべての被爆者の心からの願いです。