被爆者相談所および法人事務所
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東友会結成55周年記念 東京原爆展 〈詳報〉感動と共感の6日間

 東友会結成55周年記念「つたえようヒロシマ・ナガサキ東京原爆展」は、東友会の企画にはじめて被爆二世が直接参加したこと、被爆体験の記憶がない世代の被爆者と被爆二世、支援者が協力した実相普及の場になったことが、特徴となりました。高齢化が進む東友会の運動に新しい展望を開くものとなりました。
 今回の実行委員会に被爆二世の協力をえようという企画は、2012年9月のスタッフ反省会で確認され、開催4カ月半前の3月初旬、第1回実行委員会が開かれました。
 実行委員会のメンバー14人のうち被爆体験を記憶している世代の被爆者は1人。13人は、幼児で被爆したため当時の記憶のない被爆者と被爆二世、事務局員でした。

55周年の名に恥じない準備を

 原爆展実行委員は、全体のテーマを確認した後、展示に必要な3カ所のコーナーを委員が分担して企画をすすめました。
 委員は、パネル配置、展示物のサイズ、台紙や額、キャプションのサイズ、展示の順番から看板、感想文の用紙の内容、折り紙に印刷するメッセージなどを細かく検討。開催日が近づくと、委員は連日のように東友会に集まり、展示パネルの10分の1の見本を作ったり、パネルにひもを通したり、両面テープを貼りつける作業などを、ていねいに確認しながら準備をすすめました。
 「あの日」のコーナーの担当者は、事前に広島市を訪ねて被爆の絵を選び、展示の間隔を確認して借りてきた絵のなかから展示する絵を選び、配列を決めました。
 臨場感を持ってもらうために、被爆して溶けたガラス瓶や瓦などの現物資料も配置。直接触れられる原爆瓦を用意し、広島・長崎の当時の地図、スカイツリーの高さで原爆の炸裂した高さを示すわかりやすい写真も用意しました。
 「その後」のコーナーには、被爆者の戦後の苦しみと運動を紹介する日本被団協作成のパネル展示をメインに、参観者が参加できる「折り鶴コーナー」を設けました。
 「観光サービスと間違われた気がした」という2012年の反省を生かして、2013年は、「折り鶴」の意味を日本語と英語で印刷したカラフルな折り紙を1万枚用意し、折り紙担当を配置しました。
 「いま」のコーナーは、8人の被爆者と一つのグループの写真をオリジナルで作成。ボランティアでの協力を申し出た被爆二世のカメラマンとフリーライターが訪問して、撮影と聞き取りを担当。これらの英文のキャプションも海外生活の経験がある被爆二世が協力しました。
 さらに、55周年企画として東友会55年間の年表を写真入りで作成し、展示しました。

原爆展会場となった東京都庁の展望室。
展望室と原爆展の全景

人と人の交流を実感できた原爆展

 原爆展会場のあちこちで感動的な交流がありました。
 原爆の熱線でザラザラに溶けた瓦の表面を手でふれている親子連れ、「遠足できました」という小学校2年生のグループを引率してきた教師が、パネルに興味を持った児童に内容を説明していたり、広島・長崎の原爆の違いを母親に説明している小学生の男の子もいました。
 流れる涙をハンカチでぬぐいながら被爆の絵と説明を読む若い女性、広島・長崎の当時の地図を指でたどりながら、被爆時の様子を話している被爆者、英文の展示を食い入るように読む若い外国人の姿も目立ちました。
 被爆二世の専門家が被爆者を紹介するという企画にはマスコミも注目。初日にスタッフを担当した二世のカメラマンとフリーライターを、マスコミ5社が駆け付けて取材しました。取材がすすむと記者が「私も被爆二世です」「三世です」と名乗り、体験継承の話しがおおいに盛り上がっていました。
 毎年好評の折り鶴コーナーでは、観光客が足を止め、折り紙を勉強したり、折り紙に印刷された折り鶴の意味を熱心に読んでいる姿もありました。

切実な相談を寄せる参加者も

 原爆展の会場は、にわか相談所にもなり、スタッフを担当していた東友会事務局員が対応しました。
 相談を寄せたのは、救援のため入市したが被爆者手帳を申請していない男性、被爆者手帳に印刷された被爆距離が違っているという女性、転居の手続き、健康管理手当や被爆二世の医療費助成を申請したいという相談もありました。
 さらに、68年間の闘病生活を語る被爆者、被爆1年後に白血病で死んだ叔母を在学していた学校の慰霊碑に刻んでほしいと願う女性、先天的な病気で苦しんでいる被爆二世などから、切実な思いが語られました。

ギャラリー:原爆展の場面から

原爆の物証である現物資料もガラスケース内などに展示。
現物資料をじっと見つめる人たち
引率の先生と、リュックサックを背負った児童たち。
子どもたちに核兵器のない平和な世界を
テーブルを並べて、子どももおとなも、日本人も外国人も鶴を折りました。
毎回好評の「折り鶴コーナー」はさらに充実
展示には、原爆を報道する英字ニュースのパネルも。
英字ニュースを真剣に読む国人観光客
被爆者が描いた絵をひとつひとつ見ていく人たち。
父が娘に説明しながら
被爆者へのマスコミ各社からの取材も。
自身のパネルの前で取材を受ける
たくさんの人がパネルに見入っていました。
好評の「東京に生きる被爆者」
原爆展は、次の世代への継承の場にもなりました。
子どもたちに原爆の体験を話すボランティアの説明員

原爆展で寄せられた感想から

国内外、老若男女、様ざまな人たちから寄せられた感想の一部を紹介します。(順不同/一部、文章を整理させていただきました。)

 広島の記念館にも行ったことがありますが、今回は実際に広島の3.5キロメートルで被爆された方から当日のことを直接お聞きでき、歴史の中の出来事のように漠然と感じていたヒロシマが、事実として実感できました。子どもたちの世代にも語り継いでいってほしいし、私も伝えていかなければと思いました。(50代女性・東京)

 写真を拝見しておどろきです。言葉が見つかりません。(60代男性・埼玉)

 原爆展があるというのを聞き8月4日午後に来ました。あの日8月6日の広島でのバクダン、何と恐ろしいことか。写真を見て、唯々驚きました。私もあの日は名古屋陸軍造兵廠に挺身隊として、国の為と思い働いていましたので、今思い起こせば何だったのかと思うばかりです。ヒロシマ・ナガサキで原爆にやられた人たち、さぞ苦しかったでしょうに。二度とこの様な怖い恐ろしい事のない世界になって欲しいと願うのみです。(80代)

 8月6日のすごい状況をあらためて絵と文により知り、私の親戚の人びとの苦しみ、嘆きを再認識しました。新聞記事に出ていた二世の会の案内があったらと思いました。見ることができこれからのことを考える上で参考になりました。(60代男性・被爆者の子・東京)

 先月、被爆者であった父が永眠しました。長年ドイツに住んでいたので父と触れることが少なかったのですが、今になってもっと詳しく話を聞いておけばよかったと悔やまれます。日本の政治が平和に逆行する今日、このような催しが数多くおこなわれ、多くの人の眼に触れることを希望します。(女性・被爆者の子・東京)

 東京の被爆者のみなさんの55年の歩みがコンパクトにまとめられていて、原爆の苦しみを抱えながらも人間として生き抜いてこられた力強さを感じました。一人でも多くの姿を残してください。(60代女性・非被爆者)

 原爆の恐ろしさを改めて感じました。2013年、広島に行きます。世界から核兵器をなくす事は全人類の望みであり課題です。私たちの世代で核兵器ゼロの世界をつくるために、唯一原爆を落とされた日本の役割は大きいと思います。(30代)

 原爆がいかに人間の命、幸福をうばったのか、改めて核兵器をなくすためにがんばらなくてはと思いました。原爆展をつくってくださり、ありがとうございました。(20代女性・都議)

 東京にも多数、被爆された方々がいらっしゃり、伝える活動をなさっていることに感謝申し上げます。これからもお体に気をつけて続けていただければ有難いです。(50代・非被爆者)

 自分も広島出身なので痛みを感じます。(30代男性・愛媛)

 戦争がなくなればいいのにと思いました。今の時代にいることをうれしく思っています。(母親と来た小学生男子)

 たまたま立ち寄ったのですが、原爆展を見て戦争の苦しみがわかりました。(10代)

 決してあってはならないことで、ましてや、なんの罪もない子どもたちに被害がおよんだことは今じゃあり得ないことだなと思った。今のこの平和な時代に生まれてきたことが本当によかったなと思った。平和が何よりも大事なことだと思った。(10代)

 本やテレビなどで原爆についての知識はあります。でも実際の写真を見たり絵を見たりしたのははじめてでした。子どもと一緒に見たのですが戦争の、原爆のひどさが伝わってくれたらと思いました。(女性)

 子どもが小さいので、まだ原爆とかの話をしてもわからないかなと思いましたが、写真を見ていろいろと興味深く聞いてきて、いい機会がもてました。

 原爆展を巡りながら、私の心は引き裂かれ、被爆者、亡くなられた方々、ご家族のことを考えると落ち込みました。戦後の米国原爆傷害調査について知り、情けなくなります。そもそもアメリカがなぜ原子爆弾を使ったのか、強い怒りを感じ、恥ずかしく思います。他の外国人も同じ感想をもってくれることを願います。平和を訴え、人間が生きる限り核兵器の使用を禁止することを、ともに要求したいです。(女性・アメリカ)

 被爆者の病気は国がすべて負担すべきです。原子力は平和のために使うべきです。(40代男性・中国)