被爆67年「私の、私たちの手紙」 寄せられた手紙から
東友会が「東友」1月号でよびかけた「私の、私たちの手紙」運動に応えて、第2次締め切りの2012年4月末までに51人から手紙が寄せられました。この運動は、日本被団協が呼びかけている「国の償い実現国民運動」の成功を願って企画されたもので、手紙を呼びかけている対象は東京在住被爆者と、被爆者の要求、願いを支持してくださる人びとです。
手紙のよびかけの趣旨に応えて、これまでに寄せられた手紙の主は、東京に住んでいる被爆者だけでなく、神戸市に住んでいる被爆者や、被爆者の子、被爆者運動に関係している専門家、被爆者とともにサークル活動をしている非被爆者などさまざまな広がりを見せています。
手紙の宛先も、「野田総理大臣へ」をはじめ、「世界の人びとへ」「子どもたちへ」とか、「長い間健康を気遣いつづけてきた友へ」「私に研究を示唆してくれた人へ」「三友会のカラオケのみなさまへ」など多彩です。
手紙のほとんどは、被爆体験を語り、「こんな残酷なことが世界のどこにもくり返されないように」という願いを綴ったものですが、月を追って増えてきたのが「福島原発事故」を自分の被爆体験を基に考え、救援しようとする手紙です。
これらの手紙の一部(要旨)を紹介します。
多くの方へ
「母の葬儀の写真には、生まれたばかりの自分が養母に抱かれて写っていました。この事実を理解するまで、ながい時間が必要でした」と書いてくださったのは、広島被爆の世田谷の岩崎章さん(66歳)でした。身重だったお母さんが被爆し、自分を出産して3カ月後に42歳の若さで他界したのです。それから後の生活と病気との苦しい日々をつづりながら、岩崎さんは結びます。
「人間を標的とした原爆の投下は、いかなる口実も、いかなる言い訳も決して許されるものでない」「ふたたび被爆者をつくらないために」
野田首相へ――形ある償いを
長崎被爆の深堀寛治さん(78歳)の手紙はこうです。「私は小学校6年の時被爆し、顔や手足に重傷を負い67年経った今でも深いケロイドの傷が残っています」「人目を避けるような生活を67年間、辛い生命の危機でした」「そして6年前に大腸ガンになり、手術中に腹膜炎を併発、家族が全員集まってたいへんだったそうです」「(戦争を起こした)公務員の犯した罪の償いをしなければなりません。直接被爆者の小さな願いを聞き入れてください。顔面のケロイドの認定をすることで形ある償いをしてください」「あわせて核の全廃、原発の廃止を強く望むものです」
おばあちゃんへ
港区の吉兼實さん(84歳)からは、次のような手紙が。
「あの日、廃墟になったわが家の前で、おばあちゃんが『学生さん、きっとカタキをとってください』と叫びました。あの声が心に残り、時たまふっと浮かんできます。
おばあちゃんの言葉がはっきり思い出されたのは、2001年9月ニューヨークの世界貿易センターが爆破された事件です。私は中東戦争を取材して、アラブがどれほどアメリカを憎んでいるかよく知っています。しかし、これではカタキにはカタキをというとめどもない悪の連鎖反応になってしまいます。
おばあちゃん、私たち被爆者はこんな愚行はくり返したくないと思います。私たちのカタキうちは広島の全てを破壊した原爆をなくすことではないでしょうか。私は命があるかぎり、原爆絶滅の運動を続けたいと思います。原爆こそカタキです。おばあちゃんも、草葉の陰から私たちの運動を支えてください。一緒にがんばって、あのカタキをとろうではありませんか」
被爆者の子から みなさんへ
広島で14歳の時被爆したお母さんの子、八王子の大橋伸子さん(41歳)は、8歳の時から41歳になった今までの異常な健康状況を綴っています。
「私は8歳の時、脳腫瘍の手術を受け、大人になってからは甲状腺機能低下症を患っています」。そして「被爆2世に小児ガンが出たということは知られていないかもしれませんが、福島の原発事故を体験した人たちが10年後、20年後に何らかの病気を発症する恐れはあるのです。核の恐ろしさを知ってください」
「心」を伝達していく時
「被爆者の子」からは、江東の吉田正子さん(65歳)の手紙も届きました。
広島被爆の母親の子で65歳になったとき、正子さんは実感したと言います。「多くの被爆者が高齢化し、いよいよ2世が未来へどんな小さな形でも『心』を伝達していく時がきた」と。
2009年に乳がんの手術をうけたとき、東友会から「医療券」のお世話を受けたことと、被爆者である夫に励まされて「人様のお役にたてる」仕事として佐賀錦の織物作りに熱中し、その作品を大学茶道部に寄贈して喜ばれたことを綴りながら、「本年は被爆2世のひとりとして、歩んでいく」と決意を語っています。
三友会健康カラオケのみなさまへ
ほのぼのした手紙を寄せてくださったのは、国分寺市の末永公一郎さん(68歳)です。
「三友会のカラオケ健康教室に参加させていただいてもう5年。おかげさまでレパートリーも増えました。
カラオケの後、みなさんの被爆体験などお話をおうかがいして、被爆者を取り巻く環境について私なりに理解できるようになりました。
このたびの福島原発の事故については、私の実家は80キロメートルの地にあり、被災の恐ろしさを認識しているところです。みなさまは被爆の後遺症でいろいろ病気を抱えており、心の葛藤があると思うのですが、それを超えて明るく楽しく歌う姿には敬服させられます。みなさんを取り巻く環境が良くなることを併せて祈念します」
「黒い雨」の真実探求
研究者からの手紙も寄せられました。
「村上経行様へ」という私信にも似た手紙を寄せてくださったのは、気象学者の増田善信さん(88歳)です。
増田さんは、広島に原爆が投下された直後に降った「黒い雨」がどの範囲に降ったかを調査した研究者で、それまであった「宇田雨域」を大幅に訂正した「増田雨域」というデータを発表した方です。
増田さんは、この研究のきっかけになったのは村上さんがいった「原爆による黒い雨が、あんなきれいな卵型で降るもんですか」ということばでした。
このことばに触発された増田さんは2年後、被爆者の手記や記録を基に、宇田雨域の2倍におよぶ雨域を仮発表。さらにこの仮説を裏付けるために、村上さんの協力を得て、住民からの聞き取り調査をおこない、最終的には「宇田雨域」の4倍の広範囲で黒い雨が降ったこと、この雨で低線量被爆を受けた人が多数いたことを突き止めました。
この論文は、原爆症認定訴訟でも使われ、原告勝訴の証拠の一つになりました。
しかし、政府はこの事実を認めず、雨は降ったが残留放射線の被害はなかったとしました。
増田さんは結びでいいます。「福島原発による影響は、広島、長崎の内部被曝と同じだと思います。村上さん、あなたが生涯をかけて追及してこられた“黒い雨”の問題が福島原発事故でもクローズアップされたのです。私はあなたの“黒い雨”問題でえられた成果を力に、核兵器も原発もない世界の実現と国家補償によるヒロシマ・ナガサキ・フクシマの被ばく者への援護法実現のため奮闘することを誓います。どうか天国からあったかい目でみまもってください」