【連載】役員の紹介「東友会とともに」
第1回(1) 協議会副会長(中野) 家島昌志さん
3歳2カ月のとき、広島市牛田(爆心地から2キロ)で被爆しました。そのとき家には、夜勤明けの父、母と10カ月の妹、家島さんの4人がいました。屋根瓦が吹き飛び、窓ガラスは粉々に砕け家の中に。とくに母親が全身にガラスの破片を受けてたいへんだったそうです。2人の姉は、父方の郷里である鳥取県に疎開していて無事でした。
その後、父は仕事の関係で単身家に残り、3人は鳥取県に疎開。その父は24年後60歳のとき原爆症(上顎がん)で亡くなりました。
家島さんは郷里で大学を卒業。郵政省(当時)に就職し、東京へ出ました。豊島区に住んでいた23歳のとき被爆者運動に参加。しかし現役時代は転勤が多く、全国7カ所を転々。本格的に被爆者運動に取り組むようになったのは退職後66歳になってからです。
73歳で甲状腺がんを患いました(原爆症と認定)。胃潰瘍、十二指腸潰瘍、膀胱結石などの病気をふくめ、本人曰く「病気のデパート」だそうです。
落ち着いた低い声と、ユーモアのあるアドリブで場を和ませる、みんなのまとめ役です。(石飛公也)
第1回(2) 協議会常任理事(立川) 熊田育郎さん
8年前、熊田さんが肝細胞がんで原爆症認定を申請したとき、村田未知子相談員のお世話になったのが、東友会と繋がりを持った始まりだとお聞きしました。生後8カ月のとき、爆心地から1.3キロの広島市天満町で被爆。お母さんを亡くしました。
軍属として東京の海軍艦政本部に勤務していたお父さんが、戦後再婚して広島に育郎さんを引き取りに来たのが2歳の時。6年生のころ初めて、ご生母の死と自分が被爆者であることを知らされたそうですが、成人後もその自覚が希薄なまま過ごしてきたそうです。
しかし、原爆症認定の通知を受けた後、さすがに良心の痛みを感じたといいます。自分が受ける国の制度は、被爆者運動の長年のたたかいによって勝ち取られたもの、という認識をお持ちだったからです。
立川友の会に連絡し、ささやかなお手伝いくらいならと申し出たのが数年前。最近、法人理事や協議会常任理事になり、少々動揺しておられるとか。でもこれも、熊田さんの余生に与えられた天命では。腰を据える時が来たのかもしれませんよ。(梅岡功)