【連載】役員の紹介「八十路を越えても」
東友会を支える80歳以上で元気に活躍する東友会のみなさんを順次、紹介していきます。
第6回(1) 前・広報委員会副委員長 梅岡功さん
古田国民学校(4年生)だった10歳のとき、広島市古田町古江で被爆しました。被爆後の生活では、倦怠感がひどく、いつも横になっていた記憶があるといいます。
広島の修道中学・高校を卒業し、1954(昭和29)年に上京。子どものころから親しんだバイオリンを学ぶため武蔵野音楽大学器楽科に進学しました。
その間、個人的に指揮法について学んでいましたが、卒業後はバイオリン奏者としてオーケストラに所属。さらに自分の夢を果たすべく、渡欧してオーストリアのモーツァルテウム音楽学校に入学し、高名な教授について指揮法を学び、完成させました。
長い間、被爆のことは考えないようにしてきましたが、何十年ぶりかで出会った国民学校の同級生の勧めで、2000(平成12)年に手帳を取得しました。
以後、武蔵野けやき会と東友会の活動に参加するようになり、様ざまな行動にも参加しています。2014(平成26)年からは武蔵野けやき会会長として活躍しています。
趣味も“音楽一筋”です。(髙木恭之)
第6回(2) 前・広報委員会副委員長 森貞士さん
東友会の集会や行動でカメラを構えている人を見かけたら、新聞「東友」専属カメラマンの森さんです。
「広島には空襲がない」と、陸軍兵器学校に召集されていた父の元に転居した1カ月後、広島市舟入国民学校の校庭、2.2キロの地点で被爆。当時11歳でした。
ケガや火傷は受けませんでしたが、地獄の阿鼻叫喚の中を自宅に戻り、兵器学校の防空壕に避難し、三次市から郷里の和歌山に。
1971年に漢方薬の原料を扱う仕事に従事するため上京。81年に江東診療所の集団健康診断に参加したことをきっかけに被爆者運動に参加。パソコン操作が得意で、江東・江友会の理事、事務局長、副会長を歴任してきました。
「東友」の写真を担当したのは2008年9月の合宿研修会からで、間もなく9年になります。杖を使うようになり、「重いカメラは持てなくなった」と話し、6月から「二代目専属カメラマン」も決まりましたが、初代の意地は健在。パレードでは歩道橋を駆け上がり、集会ではイスの上に立って撮影するなど、責任感の強さは周囲を圧倒しています。(村田未知子)